立ち読み:新潮 2016年11月号

受賞者インタビュー
記憶を縫う/古川真人

――受賞作「縫わんばならん」は九州の島を主な舞台にした、一族四世代の物語です。作品誕生の経緯を教えてください。
 去年の新潮新人賞にも応募したのですが、一次での落選がわかったとき、もう一度だけ応募してダメだったら、新潮新人賞は諦めようと思って、構想を練りました。そして思いついたのが、九州の島にある母方の家をモデルにして、一族をめぐる三つの話を連作のような形で書いてみる、というアイデアでした。書き進めていくと、それぞれの話がつながって、話の終わりの余韻が次の話の始まりに重なったり、これまで書いてきたものと違う作品になる手応えはありました。でも同時に、「俺はなんて下手なんだろう」と思い続けていましたが。
 特別な取材はしませんでしたが、毎年、盆と正月は実家の福岡に帰って、そこから母の田舎の島と父の田舎の両方に挨拶にいくようにしていました。また、去年は身内に不幸があったので、葬式のために島に行きました。そうして帰省すると、親族が昔の話をするのに聞き耳を立てたり、古い写真アルバムに出てくる人について尋ねたりしました。

――古川さんの個人的・文学的な来歴を教えてください。
 父方の家は福岡県の山の中の集落で農業や林業をしていましたが、ダム建設で集落が沈んだので、一族が糸島市内に出てきました。母方の家はまだ長崎県の島にありますが、親戚の多くは福岡市に移り住んでいます。子供の頃から親戚付き合いが濃かったので、小さい頃は年寄りとばかり遊んで、彼らの影響はかなり受けたと思います。
 中学校に入ると、まったく勉強についていけなくなりました。まさにイケてない中学生の典型で、まず知らない人に話しかけられない。マクドナルドで注文ができませんでした。高校に入って環境がかわったら、ある程度、対人恐怖症はおさまりましたが。
 当時、暇を持て余して、似たような友だちと集まって古本屋を回ってはマンガや中古CDを探したりしていたのですが、中三のとき、小説を読む友だちの影響で三島由紀夫の『仮面の告白』と出会いました。初めて読んだ文学作品でした。最初は面白いのかどうかさえも解らなかったんですが、三島の他の作品も読み進めていきました。
 文庫の巻末にある解説や年譜を読むのが好きで、自分の好きな書き手に影響を与えた作家がわかると、それも読む――そのようにして少しずつ読書の幅が広がっていくのが楽しかったです。特に三島由紀夫の『作家論』で三島が論じた森鴎外尾崎紅葉などの明治の作家から昭和の円地文子まで、ひとりずつ本を探して読んで行きました。なかでも武田麟太郎と島木健作が面白くて、筑摩書房の日本文学全集で「武田麟太郎・島木健作・織田作之助」の巻を愛読しました。織田作之助はとにかく上手いし、面白い。武田麟太郎の小説の救われなさも好きでした。なかでも島木健作の『生活の探求』がそれまでに読んだ本と全然違うように感じられました。農家に生まれた主人公が一度は東京に出るものの、大学を中退して農民としての生活を探求していく、まさにタイトルのままの作品で、硬質な文章も含めて、ほんとうに新鮮でした。
 高校は、最初の一学期でクラスメイトの十人近くが退学するようなやんちゃ・・・・な学校に進みました。文学の話ができる友達はいませんでしたが、図書室の司書をされている先生が指導する文芸サークルに入りました。週に一度、図書室に集まって小説を書いて、文化祭で製本した冊子にして販売するのが活動の中心でした。そこで書いたのがはじめての小説で、武田麟太郎にかぶれていたのがそのまま出てしまい、夫が家で退屈して散歩するだけの話でした(笑)。文芸サークルの先生は文学賞への応募を積極的に勧めていたので、高校三年の時にすばる新人賞に応募しました。

――同時代文学との出会いは?
 中学生の時に、たまたま家に「文藝春秋」の芥川賞発表号があって、吉村萬壱さんの「ハリガネムシ」を読んだのを覚えていますが、正直、あの頃にはよくわかりませんでした。高校生のときに、笙野頼子さんの『だいにっほん、おんたこめいわく史』を読んで、小説ってこんなに自由に書いてもいいんだ、と思った記憶があります。
 大学で「近代日本文学研究会」という研究会に入って、作家になりたい気持ちが少しずつ芽生えてきたのだと思います。同世代の人がデビューしても嫉妬はなかったですね。「こういう作品が『現代文学』なら、俺にはぜったい書けないな」と感じていました。ならば、自分が親しんできた島木健作や彼が愛読していたトルストイの世界をどうすれば現代文学につなげられるのか、そんなことを考えていたのだと思います。
 大学は結局、四年いたのに三年生に進めず除籍になりました。基礎学力がまったくないですから、概説の授業に追いつけず、語学なんかも全然だめでした。研究会に力を注ぎすぎた、と言うと言い訳がましいでしょうか(笑)。
 大学を辞めてから今までの六年間は、ひたすら寝転がっているうちに時間が過ぎました。鬱屈はしていたと思います。大学での友人は就職しているから、「どうせあいつは暇だろう」と呼びだされて、酔ったら鬱屈が爆発してしまう。だけど無為な六年間の後半は隠居した爺さんのようなメンタリティになってました。「俺ってどうなっていくんだろうな」と寝ながら考えるばかりで、田中慎弥さんが芥川賞を受賞されたときのインタビューで「一度も働いたことがない」と言われていましたが、そういう存在に目がいかないくらいの近視眼的な逼塞した生活でした。
 そんな時に、最終候補になったとお電話をいただきました。まず思ったのは「俺はこれからどうなるんだろう」ということです。「もしかしたら寝転がってるだけの生活が終わるかもしれない」と。でも、未来についての具体的なイメージは何もなく、希望というより、ただただ混乱して今日に至っています。

――四世代に及ぶ血族の物語を描いたことで、選考会では『百年の孤独』に言及した委員もいました。
 畏れ多いです……。ガルシア・マルケスは中上健次が強く意識していた作家として興味を持ちました。『百年の孤独』は、初めて読んだラテンアメリカ文学です。中上の紀州サーガには「自分にはああは書けないな」という意識がずっとあります。非常に執拗に書かれているのに、同時にどこか爽やかな印象があって、そんな作品世界を駆け巡る若い者たちとそれを慈しむオバたちの世界は到底自分に書けない。俺は不器用に、下手に書くしかないと思っています。
 中上に影響を受けたという自覚は特にありません。島木健作は大学に入ってから読まなくなって、もっぱら、今も読み続けているのはトルストイです。家族を書きたいと思っていたので、ロシア貴族の一族の興亡を描いた『戦争と平和』は少なくとも15回くらいは読み直しました。『戦争と平和』の最後の巻で、冒頭から出ている主人公ピエールの恋人ナターシャの母親が、度重なる不幸で、最後の方では認知症的に描かれる老婆となりますが、自分の祖母のひとりが認知症のまま晩年を送ったので、「俺の家と同じだ」という感じがあります。『戦争と平和』からは、小説というのは、元気だった登場人物が認知症になるまでの「長い時」を描けるのだということを学びました。

――本作は老婆たちの回想を通じて、戦前から現代にいたるまでの非常に長い時間が描かれていますが、最終章では、一族の最若手で五世代目にあたる青年が認知症だった祖母の葬儀に出るために、九州に帰ってきて、「婆ちゃんはほどかれてしまった、また縫わんばならん、綴じ合わせんばならん。そうたい、そうたい……」と思いを噛み締めます。本作のタイトルにもつながる重要な場面でした。
 「縫わんばならん」は書いていて自然に出てきた言葉でした。作品の最後のほうは書きながら混乱してしまって、どうすればいいんだろうと思っていたのですが、島の古い家がほどけるように崩れ、祖母の存在もほどけていく中で、「縫う」という言葉がやってきたんです。

――今後の古川さんにとって、失われゆく記憶を「縫う」感覚は重要なものになりそうですね。
 たしかに受賞作を書き上げたことで、記憶に目を向けることに自覚的になった気がします。人の記憶だったり場所の記憶だったり。この感覚は、この六年間何もしなかったこととセットになっているのかもしれません。自分の未来にまったく見通しが立たない分、意識が記憶に向かったのでしょうか。

――次回作の構想は?
 今回書いた小説で老婆のモデルになった私の祖母は長く認知症を患っていたわけですが、本人がどんな精神で長年横たわっていたのか。俺をもう家族だと認識できない祖母が俺を見つめていたのはどういうことなのか、受賞作では踏み込めませんでした。それを書きたいです。

[→第48回新潮新人賞受賞作 縫わんばならん/古川真人]