立ち読み:新潮 2016年12月号

息子と狩猟に/服部文祥

 加藤は、平井を見て小さくうなずいた。目だけで答えた平井が、すでに泣きはじめている中原から、携帯電話を奪う。
「あー、大井町警察署、交通課の、フジモトです」
 平井お得意の年配警官である。
「ちょっと篤也さーんがぁ、まだ混乱中なのでぇ、お電話っ、代わらせて、もらい、ま、し、た」
 人を諭すことになれた脂ぎったオヤジが、いちいち確認するような節回しだ。
 篤也はトクヤと読む。ここを間違えると台無しだ。情報屋によって“磨かれた”名簿を持っている加藤の詐欺チームにとって、変わった読み方は逆に武器になる。
 平井がしゃべりながら目で合図してくる。加藤は軽く机を蹴って「繋がったんか」と携帯に向かってドスを利かせた。篤也役の中原は聞こえるか聞こえないかのすすり泣きのまま、ノートパソコンをいじってパトカーのサイレン音を再生し、駐車場を出て行くかのようにゆっくりボリュームを絞る。同時にもう一台のパソコンで、数人の男が廊下を足早に歩いていく音も再生する。
「高梨朋子さんで、お間違いないですかぁ」と平井は慌てない。
 このクールから、中原は二台のパソコンをアンプに繋いで、BOSEのスピーカーから効果音を出している。中原は効果音を操りながら、すすり泣きを止めることはない。嘘泣きではない、本当に涙が頬をつたい、鼻水を垂らしている。
「朋子さんには、落ち着いて話を聞いていただきたいんですが、甥っ子さんのですね、篤也さんがですね、交通事故を起こしてしまいまして、いまこうして私がお話ししているんですぅ」
 甥が会社の車を運転中に交通事故を起こした。大きな事故ではないが、ぶつけた相手の車にはたまたま妊婦が乗っていた。しかも、妊婦の親が暴力団に関係しているらしいと臭わせる。加藤のチームがよく使うシナリオの一つだ。地方で独居する年老いた女性の孫か甥が、都会で就職したばかりであれば、高い確率で、金を騙し取ることができる。
「少し込み入った事情がありまして、叔母さまである朋子さんにお電話しています。連日の仕事の疲労から、軽い居眠り運転をしていたことを篤也さんもすでに認めておりましてぇ、女性は念のため入院しましたが、幸い流産には至っていません。我々が捜査した範囲でも、今回は篤也さんが加害者、梶山さんが被害者ということで間違いないかと思います」
「だからそう言っとるやろうが」と電話口に近づきながら加藤が吼える。
「ちょっと梶山さん」と平井が加藤を制する。恫喝で押すか、正攻法で騙すかの采配は平井にある。「本当のことを言いますとね、朋子さん。このような事故処理は地方裁判所管轄の下部組織の交通事故簡易裁判所、いわゆる交簡裁がおこないます。ご存知ですよね、コーカンサイ」
 そんなものはない。
「こういった軽度の自動車事故を専門に処理する部署がございまして、通常はそちらで処理されます」
 加藤は「軽度」という言葉にかぶせて「なにいっとんじゃ」と電話の遠くで難癖をつける。
「ただですね、その場合は、正規の手続きを踏みますので、国選弁護人を立て、ちゃんと調査しなおして、時間もかかります。問題はですねえ、篤也さんの、将来のことなんですぅ」
 平井は正攻法で金を獲れると踏んだらしい。
 平井は相手女性の名前や年齢、妊娠期間などの細かいことも朋子に伝えている。本当の警察がそんなことをするかどうかは関係ない。ディテールを積み上げるのは劇場型詐欺の定石だ。
 平井が目で合図している。加藤は、椅子を蹴飛ばして派手な音をだし、「こっちゃ、赤ん坊も母親も殺されかけてんやぞ」とわめく。何を言っているかわからないくらいでいい。
「梶山さん」と携帯を少し遠ざけた平井がややキツい口調で加藤をたしなめる。
「こっちは出るとこ、出てもええんやでえ」
「梶山さん、いまこちらでお話ししていますので」と平井はキツい口調を変えない。警察は味方だと、朋子に思わせるためだ。ドアが開いて閉まる音を中原が再生。
「交簡裁? いやちょっと、いまようやくご親戚と連絡が取れたところですよ。藤本警部、今日は高裁の関係で、急いでるみたいです」と中原は若手警察官のダブルキャストだ。
 平井の表情が険しくなる。ターゲットが何か口を挟んだようだ。
「たしかに、会社の車での事故ですから、保険でカバーできるとおもいますよぉ。ただその場合は、人身事故も加わることになりますけど、それでいいですかぁ?」
 カモが落ちるかどうかの瀬戸際だ。
「正規の手続きになりますと、人身事故も加わって、篤也さんには前科が付くおそれもあります。人身となればね、会社を解雇されますよ、わかりますか。だから親御さんではなく、朋子さんにお電話しているわけです。公にすれば、前途有望な若者の経歴に傷をつけて、将来を奪うことになるわけです。そんなことは誰も望んでいないですよねぇ」
 中原がすすり泣きを大きくする。
「警察も望んでいないんです。社会にはそれを救済する制度があるんですよぉ。本人も反省し、被害者の梶山さんも今回は公認示談という形をとることに同意していただいています。送致猶予までもう時間がありません。手短かに説明しますのでよく聞いていてくださいね。公認示談という制度がありまして、今回のようにですね、後遺症などの心配がない軽度の人身事故の場合は、被害者と加害者が話し合って簡易交通裁判に送致せずに済ます、公認示談をとります。みなさんそうしていますよ。ただそのためには、保証金が必要になります。篤也さんが逃げも隠れもしないということを、お金を一時的に裁判所に預けることで、保証するわけです」
「もうええわ。こっちが親切心出せば、グダグダ言いやがって、出るとこ出てもまったくかまわないんやで」と加藤は本気で机を蹴った。「保険あるんやろ、こいつ凶状持ちにして、無職にしたればええんや」
「ちょっと梶山さん」と平井は加藤を押さえるように立ち上がった。
「いまからそこ行って、赤ん坊と母親がやられたことあんたにもやったろうかぁ?」
「国選弁護人の菅谷です」と部屋の端で出番を待っていた斉藤がようやく携帯を持つ。「篤也さんの叔母さまに当たる、高梨朋子さんに間違いはございませんか?」
 名前はもちろん、生年月日、住所、本籍など、「名簿屋」が調べたネタを斉藤は事務的な口調で確認していく。相手を信用させると同時に、逃げられないと思わせるためだ。
「これから、どのようなことになるのか、ご説明いたしますね。送致延長申請と公認示談の申請を手早く同時に進めていく必要があります」
 篤也役の中原は、再びすすり泣きを少し大きくする。平井が斉藤に指を三本立てて見せる。加藤は平井の顔を見た。平井は大丈夫だと自信ありげに頷き返している。
「送致延長申請と公認示談の保証金で三〇〇万円かかります。これは保証金ですので最終的には朋子さんに返金されます。振り込み後、すぐに国選弁護協会の名前で領収書が発行され、郵送されますので、その領収書は、大切にとっておいてください。郵送先は、先ほど確認した住所で大丈夫ですね。送致延長申請は期限がありまして、もう時間がありません。篤也さんを救うことはもう朋子さんにしかできないんです。これから私の事務所に勤める者の振込先をお伝えしますので、メモの用意をお願いします。本日の銀行業務が終了するまでに三〇〇万円確実に振り込んでください。さもないと、この案件はもう、朋子さんにも被害が及ぶ可能性もありまして……」

(続きは本誌でお楽しみください。)