立ち読み:新潮 2016年12月号

甦る幻の島尾日記――『死の棘』その前夜/梯久美子

あるはずのない日記の発見

 思わず息を飲む、というような常套句はなるべく使わないよう心がけているが、その箱の中を見た瞬間の私の反応は、そう表現するしかないものだった。
 箱は、デパートや洋品店で背広などを買ったときに入れてくれる、平たい大きな紙箱である。その中にあったのは、破れ、ちぎれ、ぼろぼろになった数冊のノートだった。一部のページはくっつきあって層状の塊を作り、風化した土壁のようにところどころ表面がはがれ落ちている。だがその断片には、判読できる状態で文字が残っていた。
 島尾敏雄独特の、神経質に並んだ米粒のような文字。私は息をとめたまま、青インクで書かれたその文字列に見入った。
 崩壊と呼ぶのがふさわしい状態で発見されたこれらのノート群は、昭和二十年代後半の島尾の日記である。積み重なった数冊の一番上にあったノートの表紙には、手書きの文字で「昭和27年」とある。
 昭和二十七(一九五二)年は、三十五歳だった島尾が職業作家として立つことを決意し、妻子とともに神戸から上京した年である。この年の夏、島尾は『死の棘』に「あいつ」として登場することになる女性と出会う。私はそれまでの取材で、やがて妻ミホの狂気を引き起こすことになるその愛人女性は、安部公房が中心となって結成された「現在の会」の会員で、年上の人妻であることを突き止めていた。だがその存在を心底実感したのは、朽ちかけたページの断片に島尾の字で書かれた彼女の名前を見つけたこのときである。ああやはり「あいつ」は実在したのだと納得したと同時に、虚実の皮膜が破れて小説の世界が現実にはみ出してきたような、一種異様な気分になった。
 この時期の島尾の日記はミホによって廃棄されたと考えられてきた。それが、半世紀を経て衝撃的な姿であらわれたのだ。日記の入った箱を遺品の中から見つけたのは、島尾夫妻の長男・島尾伸三氏の夫人である潮田登久子さんだった。
 島尾は昭和六十一(一九八六)年十一月、六十九歳で亡くなった。最期の地となったのは鹿児島市宇宿(うすき)町である。残されたミホは夫の七回忌を機に、『死の棘』に描かれた修羅の日々の後に家族で暮らした奄美大島の名瀬にふたたび移り住んだ。夫亡きあとの二十一年間を喪服姿で暮らしたミホがこの地で亡くなったのは平成十九(二〇〇七)年三月のことである。
 その翌年の夏から伸三氏の一家は東京から奄美に定期的に通い、ミホの終の棲家となった家の片づけにとりかかった。その後、新潮社の編集者たちが加わり、島尾が遺した膨大な日記や原稿類の整理を担当するようになる。
 その日、書庫や書斎のある一階では編集者たちが働き、登久子さんは二階で衣類などを整理していた。二階の押し入れには、島尾が子供のころに着ていた服や学生服、海軍時代の軍服と軍帽などが、柳行李や茶箱に入れて保管されていた。生前のミホは島尾に関係するものはすべて大切に手もとに置いており、鹿児島県立図書館奄美分館に勤務していたときのシャツや、自転車ごと川に落ちて脚を骨折したときに着ていた革のジャンパー(そのときの泥がそのまま乾いてこびりついていたという)もあった。
 上の棚には紳士服を入れる平たい紙箱が重ねられており、中には島尾の背広やコートなどが丁寧に畳まれて入っていた。その紙箱のひとつに、持ち上げるとふわりと軽いものがあった。蓋をあけた登久子さんは驚いた。例のノート群が入った箱だったのだ。
 私が登久子さんからこの箱の中身を見せてもらったのは、平成二十二(二〇一〇)年八月、ミホの評伝の取材のために奄美を訪れ、遺稿と遺品の整理に立ち会わせてもらったときである。ミホの遺稿やノートなどは新潮社の編集者たちの手で大まかに仕分けされ、「ミホさん関係」と書かれた十数個の段ボール箱に入れられていた。一階の和室でそれらを一つずつ開封し、中身を確認していると、隣室から登久子さんが手招きをした。そこはかつてミホの書斎だった部屋で、すでに整理と分類が終わった段ボール箱が積み上げられていた。
 その一番上に、「取扱注意」と書いた紙が貼られた平たい紙箱があった。側面にはミホの字で「主人洋服」とある。それまでも評伝の執筆の参考になりそうな遺品が見つかるたびに私を呼んで見せてくれていた登久子さんが「これ、まだ見ていないでしょう」と言って、箱のふたを慎重な手つきで持ち上げた。こうして私は日記のノート群と対面したのだった。

文壇への野心と「あいつ」との出会い

 重なり合ったノートは、全体の三分の一ほどは破片になっていたが、人間の手で破ったりちぎったりした形跡はない。点々とある虫喰いの穴、水濡れのしみ……。まるで風雨にさらされて自然に崩れていったかのようだった。
 よく見ると、ほとんど崩壊して無数の断片と化しているノートと、かなり原形をとどめているノートがあることがわかった。伸三氏の許可を得て、後者のノートを確認させてもらった。このとき部分的ではあるが中身を読むことができたのは、昭和二十七年の日記二冊と、昭和二十八年の日記一冊、そして同年の創作ノートらしきもの一冊の計四冊である。
 そこに記されていた内容は、本誌に今年の六月号まで連載した「島尾ミホ伝――『死の棘』の謎」(『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ―』として今年十月に新潮社より刊行)の中でくわしく書いた。改めてざっと記せば、昭和二十七年の日記には、経済的な苦しさ、才能に対する自信のなさ、体調への不安が繰り返し記され、「売る本をさがす時の内攻的な一種のニヒル」「何かゞみたされていないという感じの持続」「話の筋など考えたが、枯渇していて自分の才能に絶望的、夜のくらさ」などの記述がある。それまで造花作りの内職をしていたミホが、この年の十一月に生活のため銀座のバーに女給として勤め始め、ミホが不在の夜に島尾が「あいつ」に会いに行っていたらしいことも日記からわかる。
「あいつ」とさらに関係を深めていった昭和二十八年の日記には、「モラルの声とデーモンの声」「デーモンの声をきゝたいのに、それが出来ない」「ミホトノ家庭ハ感謝シテイルガ、一方打ッコワシタイ」などとあり、家庭を呪縛と考えていたことがわかる。当時の島尾は外泊を繰り返し、妻子をかえりみない生活を送っていた。
 この時期のことをのちにミホが綴った文章を、私は奄美の島尾家で見つけている。島尾の書き損じ原稿(『死の棘』第四章にあたる「日は日に」)の裏にそれは書かれていた。感情をそのままぶつけたような走り書きで、愛人の女性のことを探偵社を使って調べ、その写真も入手したことなどが記されている。夫の放蕩に耐えねばならなかった苦しみが吐露され、島尾が家庭生活についてミホに言ったという「……僕が苦しむ時はお前だって苦しむのは当り前だ、「カサイゼンゾウ」だって、「カムライソタ」だって、みんな芸術のためには戦場にしたんだ。芸術をするものは安楽になんて暮せないんだ。岩の上でも、地獄の果てまでも、お前と子供は僕と一緒なんだ、芸術の女神はしっと深いからね」という言葉が書きとめられている。
 昭和二十八年十一月の島尾の日記には「子之吉が芥川賞になるか」との一節がある。これは『文學界』十月号に掲載された「子之吉の舌」のことで、島尾本人が手応えを感じ、おそらく評判もよかったのだろう。島尾はそれまでに一度芥川賞の候補になっている(昭和二十四年下半期)が、この作品は候補から漏れた。このとき候補になったのは学生時代からの文学仲間で上京後も親しく交流していた庄野潤三で、この回は授賞作なしの結果だったが、庄野は翌二十九年下半期に受賞を果たしている。同じ二十九年の上半期には上京後に親しくなった文学仲間の吉行淳之介が受賞しており、彼らより年上の島尾は焦燥を深めていく。『死の棘』に至る島尾の放蕩や妻への背信行為には、作家としての焦りや、平穏な生活をしていては優れた文学作品は生み出せないとの思いがあったことが、この時期の日記を読むことでわかってくる。
 一方、文学仲間だった愛人の女性についての具体的な記述は、この日記には少ない。その理由は後に述べるが、昭和二十八年の創作ノートに、彼女が言ったと思われる言葉が書きとめられているのを見つけた。前半部分はちぎれていて判読不能だが、最後の三行は「コノママデイルワヨ/ドコニモイカナイデ コノママデ/コトシジュウ(?)コノママデイル」となっている。

(続きは本誌でお楽しみください。)