立ち読み:新潮 2017年2月号

[新連載]数学する言葉/森田真生

 いつの頃からか、数字を見ると、約数に分解する癖がついた。駐車場でも下駄箱でもホテルの部屋でも、数字があると、思わず「分解」してしまう。
 昨夜泊まった部屋は801号室だった。8+0+1=9なので、咄嗟とっさに「9で割れる」と思った。すべての桁の数の和が9の倍数になる数は、それ自身9で割れるからだ。そこで、801割る9を暗算してみる。すると、89が出てくる。89は、これ以上ほかの数で割れない「素数」である。よって、801=3×3×89が、801の「素因数分解」だとわかる。
 数字を見るたびに、無意識にこういう思考が走り出す。役に立つわけでも、好奇心というほどのことでもなく、椅子を見たら座りたくなるように、手すりを見たら掴みたくなるように、数字を見ると素因数分解を催す・・のである。
 環境が動物に、行為を誘う種々の契機を提供アフォードしていると喝破かっぱしたのは、アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソン(一九〇四―一九七九)であるが、数字のような記号もまた、人に思考の契機を「アフォード」している。思わず解きたくなるような微分方程式の相貌そうぼう、あるいは積分をそそるような関数の佇まい。数学の世界の風光は、人を次なる行為へと誘い続ける。
 このとき、記号が立ち上げる風景は、五官で知覚することができない。数も図形も関数も、見たり、触れたり、聴いたりできないのである。
 できる、と言う人がいるかもしれない。現にここに「3」と書けば、それが「見える」ではないかと。だが、紙の上に書かれた「3」は、三そのもの・・・・・ではない。紙に書かれた「リンゴ」の文字が、それ自体リンゴではないのと同じことだ。紙に書かれた「リンゴ」を、まさか食べようとする人はいまい。本当のリンゴは、どこか別の所にある。そんなことは百も承知で、人は文字を読む。
 区別をはっきりさせるために、記号としての「3」や「三」のことを「数字」と呼び、数字が指し示している対象の方を「数」と呼ぶことにする。「3」という数字に対応する数については、〈三〉と書くことにしよう。
 このとき〈三〉が、食べたり、掴んだり、香りを嗅いだりできるような、知覚の対象でないことは明らかである。〈三〉には、大きさもなければ色もなく、形もなければ味わいもない。数について、人はただ純粋に考える・・・ことができるのみだ。「図形」もそうである。ユークリッドは「線」のことを「幅のない長さ」と規定したが、幅のない長さが現実にはあり得ないことは誰にでもわかる。線を描けばどうしたって幅が生じる。だから、紙の上の「3」が〈三〉ではないように、紙の上に描かれた線もまた〈線〉ではない(「数字」と「数」の区別と同様、以下では、具体的に描かれた線などを「図」と呼び、それが指示する内容を「図形」と呼ぶことにする)。数学とは徹頭徹尾このように、考えることしかできない事物についての探究なのだ。
 もちろん、その場にない物事について考えるのは、数学者だけではない。言葉を知る者ならば、誰でも過去について、可能性について、死者や地球の裏側について、考えることができる。現にそこにあるわけではないものを、その場に立ち上げてしまうのが言葉の魔力である。知覚できない数や図形を現出させる数字や図もまた、この魔力を継承する「言葉」なのだ。
 だが、数字や図、数式など、数学を支える言葉には、自然言語にはない機能もある。両者の間には、無視することのできない差異がある。この差異の方に、まずは注目してみたい。

行為の足場

〈五十七〉を意味するために「57」と書く。このとき、記号に過ぎないはずの「57」を、人はじかに割ったり掛けたりできる・・・・・・・・・・・・・・。このあと詳しく見ていくが、これは自然言語ではできないことである。
 「リンゴ」という言葉でリンゴの存在を喚起し、「六本足の馬」という言葉で、不可能な馬の存在を立ち上げることはできても、「リンゴ」という言葉を齧ったり、「六本足の馬」という言葉の上に跨ったりすることはできない。そう考えると、「57」という言葉の上で、掛けたり割ったり、数学的に可能なあらゆる行為を実行できることが、あらためて不思議に思えてきはしないだろうか。数学の言葉は、数や図形の存在を呼び起こすだけでなく、そうして存在を喚起された数や図形について、言葉の上でじかに計算したり、推論したりすることを可能にするのだ。数学の言葉は数学者にとって「行為(=計算、推論)の足場」として機能するのである。
 自然言語もまた推論の足場ではないか、と反論する人がいるかもしれない。確かに人は、自然言語の力を借りて、様々な推論をする。しかし、ある言葉を用いて・・・・推論することは、ある言葉において・・・・推論することと同じではない。
 些細な差異のようだが、これこそが日常の推論と数学の推論を分かつ分水嶺だと論じるのは、アメリカの哲学者ダニエル・マクベス(一九五四―)だ。彼女は著書“Realizing Reason(理性の実現)”の中で、両者を“reasoning on a language”と“reasoning in a language”と呼び分け、後者の好例として、「算用数字による計算」を取り上げている。
 インドで生まれ、イスラーム世界を経由して十三世紀頃に西欧世界に到来したインド・アラビア式の「算用数字」の登場は、数字の歴史の大きな事件だった。それによって人は「数字を用いて・・・・(on numbers)」計算するのではなく「数字において・・・・(in numbers)」計算できるようになったからだと、彼女は論じるのである。
 詳細はこれから見ていくが、「0」から「9」まで十種の記号ですべての数を表す「算用数字」は、あまりに深く日常に浸透していて、その革新性にいまさら気づくことは難しい。身近な数字の有り難みにあらためて目覚めるために、数字がなかった時代を想起するところから始めよう。

(続きは本誌でお楽しみください。)