立ち読み:新潮 2017年3月号

格闘[新連載]/高樹のぶ子

 水仙が花を付け、顔を近づければたちまち透明でつんと立った香りが、一瞬の酩酊と至福の揺らぎをもたらしてくれる、そんな春まだ浅き季節の大魔法のせいにでもしなければ、とてもこのノンフィクション作品を読み返す勇気など湧いてこない。なぜならこれは、何十年も昔に書いた惨めな失敗作で、とうの昔に捨てたものだからだ。いま振り返れば、作品以前の記録か取材ノートのようなものでしかなく、勢い込んでいただけで、作品にするだけの力は無かったのだ。
 私の作家人生からこの一作を切り離したのはいつだったか。まだ若かったという以上の記憶が無く、辿り直すのが苦痛でさえある。生きることに真摯ではあったけれど、遮二無二前へ前へと乗りだし、自分の立場を作ろうともがいていた時期のこと。突進する右手の刃物は確かに鋭かったけれど、その手は痩せて筋張っていた。物事をやさしく掴む余裕も無かったし、取材した中身を冷静に眺めることも出来なかった。
 この失敗作「格闘」を取り出し、こうしてあらためて読み返すには理由わけがある。やむにやまれぬ、切実で哀しい情熱もある。あれは何だったのか、なぜ失敗したのか、いや本当に失敗作だったのか、そもそも何を書いたのかを、今こそ検証しなくてはならないという思いばかりが溢れてくる。
 何十年も書いてきた以上、失敗作からしか発光しないものが在るのを知っているし、ほころびこそ、新しい庭への隠された小さな通路であったと、あとになって解ることもある。自分の目で、いささか衰えた目で、読み返さねばならないという、ひりひりした自虐的な使命感もまた湧いてくるのだから、今が最後の機会なのは確かだろう。
 いつかその時が来る予感はあった。そして来た。地球と宇宙は、遠い先のことはいざ知らず、私の命がある間は律儀に正確に時を刻む。だからその時は必ず来ると思っていたが、本当に来てしまった。そういうことだと低い声で覚悟を込めて呟くばかり。
 失敗の理由は、自明なことをあらためて言あげしてもつまらないからそっとしておく。読めば誰だって解る。救済があるかも知れないけれど、最後まで読み続ける力を保てないほどの駄作かも知れない。
 なぜ私が格闘に興味を持ち、ある柔道家をノンフィクション作品にしようとしたかについては、雲の中から記憶の糸を紡ぎ出すように、おぼつかないながらも思い出すことが出来る。
 格闘技と呼ばれるものに初めて出合ったのは、父がまだ生きていた子供時代だった。特攻隊の生き残りだった父は、身体も小さくどちらかというと優男だったし、格闘技どころか喧嘩になっても大声を出すことが出来ない穏やかな人だったが、我が家にテレビが来てからは、金曜ごとに早々に夕食を終えてプロレスの画面にかじりついた。力道山が活躍していた時代で、身を乗り出し腰を浮かせて腕を振り回した。父は金曜の夜、小さな獣になった。空手チョップという技も初めて知った。相手の胸に手を振り下ろすという、子供でも考えつきそうな単純な技を、その後仮面を被った正義の味方が、テレビの中で悪者に対してやってみせるようになるのだが、あれは力道山の空手チョップが元祖だった気がする。
 大人になってからはやはり何度かのオリンピックだ。球技や水泳やマラソンほか、勝敗がはっきりと目に見える競技は応援もしやすく、優勢劣勢も数値が教えてくれて、勝利の快感も負けた悔しさも、すっきりと受け入れることになるのだが、レスリングや柔道などの格闘技は審判が旗や手を上げて教える分、釈然としない時もあって、今のは間違いでしょう、あれはちょっとフェアではありませんね、などとふつふつと文句が湧いて来たりした。日本のお家芸の柔道で金メダルが取れないと苛立つ自分がいて、私が柔道着を着て相手の襟を掴み、思い切り投げてみたいとその快感を想像した。
 格闘系は器具や特殊な設備がいらない競技だから、大昔はきっと裸で闘ったのだろう。最小限度の衣類だけは身につけていたとしても、限られた時間内、限られた場所で相手を倒す、という単純で生々しいやりとりに、ときに湧き出る嫌悪と性的陶酔を感じてしまったのは、私も心中に獣を飼っていたからだろう。
 スポーツのお祭りが去っても、膨大な力と闘った記憶は、この身の体幹にも細胞にも神経系にも残っていて、ときどき荒い息を吐いては誰にともなく、負けるな、などと気合いを入れていた滑稽さ。
 ふと立ち止まれば、闘う相手が大小あれこれ、遠近さまざまな場所に存在し、また無意識のうちに仮想敵を作り出している自分に気づいて、私はなんと好戦的な人間か、早晩死ぬ身でしかないのに、なぜ闘いの意識を捨てられないのかと落ち込む。
 これが生きている証拠で、社会の中、世界中、狭い業界内、もっと大きくは宇宙の無限領域で生命を保ち続けていることなのだと、哲学的な思考に落ちてしまったりもするのだが、それでもとりあえずは闘う相手が存在し、しかも我が身はこれこのように生き延びているのだから、それだけで勝者ではないのかと、妙な満足もやってきて、おおよそそのあたりで思考との闘争力は尽き、生ぬるい満足感に身をゆだねて幕を引いてしまうしかないのだ。
 必要なものはとりあえず在ります、呼吸も出来ます、結構長く生きてきました、これが勝者でなくて何者ぞ、という境地に至ってようやく、明日からも何とか生きていけそうだと、理屈で得た安堵を抱きしめて床に着く、これは当時も今も変わりない。
 思えば、こうした自分との馴れ合いに気づかせてくれたのが、あの男だった。そして「格闘」を書いた。
 彼は格闘家でありながら、闘う相手に恵まれず、修行も一人でやり抜き、孤独を極めたという。世界一の強者なら闘う相手がいなくなる、ということで納得できるが、そうではなく、人にも機会にも恵まれない不運な格闘人生だという。
 仙人みたいな男か。疑心暗鬼から興味が生まれた。水の無い川に釣り糸を垂れ、渋谷の交差点で座禅を組む滑稽で迷惑な男の姿が立ち現れ、そんな男が本当に居たらどうしようと慌ててかき消した。闘う相手があってこその格闘なのだから、一人だけで強くなれるはずがない。
 もう一つ、面白おかしく冗談として語られていたのは、その格闘家が犬に噛みついたという逸話。噛みつかれたのではなく噛みついた。多分ウソだろうが、周囲からそんな揶揄と嘲笑が零れ出る男への、かなり冷たい興味もあった。
 もしや私と同じで、仮想敵を作っては闘いを挑み、勝って自己満足しているパフォーマンス好きの野心家か。だとすれば、犬を噛んだ逸話は自分で吹聴したのかも知れない。それにしても熊やライオンでなく、犬だなんてねえ。
 ノンフィションを書く動機なんて、箇条書きにしたとしても、並べられた理由は大体間違い。ウソではないけれどズレているものだ。それでも、書き出すためには妄念に導かれる必要がある。過信も力になる。
 ノンフィクション作品は何か特別な人物あるいは出来事に焦点を当てるもの、その焦点にはドラマ性が無くてはならないと思い込んでいたので、まずは多くの初心者がそうするように、読者を引き込む出だしで作品の面白さをアピールしようと姑息にも考えた。それでこのような書き出しになった。

(続きは本誌でお楽しみください。)