立ち読み:新潮 2018年5月号

これは小説ではない/佐々木 敦

されば小説の完全無缺のものに於ては、画に画きがたきものをも描写し、詩に尽しがたきものをも現はし、且つ演劇にて演じがたき隠微をも写しつべし。

『小説神髄』坪内逍遥


のみならず、書くことの問題は、見ること・・・・聴くこと・・・・の問題と分かち得ないものでもある。

『批評と臨床』ジル・ドゥルーズ


第一章:ラオコオン・エフェクト

1.「これは小説ではない」

 これは小説ではない。
 まずはじめに、このことは、はっきりと述べておきたい。何にも増して、この点は確かなことである。これを書いている私が言うのだから、このことだけは間違いない。これは小説ではなく、それとは別のものである。
 しかし、これは間違いなく小説ではないのだが、その上で、これは「これは小説ではない」ということについて書かれたものになるだろう。これから私は「これは小説ではない」とは果たしてどういうことなのかを、多少時間を掛けて考えていくつもりだ。なぜなら「これは小説ではない」とは、いったいどういうことなのか、どのような事態を指しているのか、そこにはいかなる意味があるのか、いかなる可能性があるのかは、ほんとうのところ、それほど自明でもなければ、単純でもないと思われるからである。
 まずもって「これは小説ではない」という主張自体が、すでにかなり怪しい。そう思う理由の第一は、もちろん「これは小説ではない」と嘯く小説が、この世には結構な数存在しているからである。自らを小説ではなく小説以外の何かであると表明する小説。ならば何と自己申告しているのかといえば、それは日記だったり覚書だったり実録だったり自伝だったり伝記だったり報告だったり書簡だったり随筆だったり論文だったり評論だったりとさまざまなのだが、しかしそれらは実際にはそれらであると同時に(それらのふりをしていると同時に)小説であり、そのことをそれらを書いた者自身もそれらを読む者も大抵の場合最初からよくわかっているばかりか、しばしばそれらは小説ではないと言いながら実は小説でもあるということを紛れもない小説として極めて小説的に利用してさえいる。だからわざわざ「これは小説ではない」という断り書きが付けられている場合こそはなから疑ってかからなくてはならない。それはむしろ「これは小説である」という意味内容の反語的な強調表現であることが多いからである。何しろこの世には『これは小説ではない』という題名の小説さえ存在しているのだ。
“This Is Not A Novel”は、米国の作家デイヴィッド・マークソンが二〇〇一年に発表した長編小説で、日本語訳も出ている(木原善彦訳)。読んでみると、筋と呼べるようなものはほぼ皆無であり、「Writer(書き手、作者)」を主語とするごく短い文章(たとえば冒頭の一文は“Writer is pretty much tempted to quit writing.”)と、さまざまな文学者や芸術家たちのやはり短い逸話(死因が多い)の断片が脈絡なく続く、なるほど確かに、あまりというかほとんどまったく小説らしくはないのだが、そんな見え見えに反小説的・非小説的なテクストが、わざわざ“This Is Not A Novel” と名乗っているからこそ、お題目とは反対に、だいぶ無理をしてでも“This Is A Novel”のつもりで読むことが、実のところは暗に、いや、あからさまに求められているわけだ。
 このことからもわかるように、「これは小説ではない」などと自ら告げている小説の方が、かなり捻れた、持って回った仕方によってではあるが、よほど小説の小説性のようなことに拘っていると考えることも出来そうだ。小説の小説性? それが何であるのか、何何であるのかが問題になるわけだが、ここで「これは小説ではない」という言表の、自己表明とは別の用法にかんしても述べておきたい。すなわち或る小説に向けて、それを書いた当人以外の誰かから「これは小説ではない」といった言葉が投げ掛けられる場合である。この場合はもちろん、批判や非難、苦言のニュアンスを帯びることが多い。音楽に対して「これは音楽ではない」、映画に対して「これは映画ではない」(そういえば『これは映画ではない(This Is Not A Film)』という映画も存在する)、あるいは誰かに対して「あなたは人間ではない」と言ったりするのと同じく、そこには「自分では○○のつもりかもしれないが、実際にはまったく○○になっていない」という含意がある。それはつまり「○○のふりをしているが実は○○の要件を満たしていない」とか「○○の面を被りつつ○○であることを損ねるような内実を持っている」というようなことだろう。だとすれば、ここにもやはり、先ほどとは裏返しのかたちで「小説の小説性」のような何かがほの見えているのだと考えられる。
 つまり「これは小説ではない」という文は、一方では「これは小説ではないと宣っているが(場合によっては「「これは小説である」と宣っている小説」以上に)小説である」を、もう一方では「これは小説であるとされている/小説であると名乗っているが、ほんとうは小説ではない」を導き出す。そして一見正反対にも見える両者は「小説」と「小説ではない」を接続あるいは切断することによって、その言表の意図/効果としては、どちらも「小説の小説性」を、ごく曖昧なかたちで炙り出している。いやむしろ自他の一編の小説に対して「これは小説ではない」と告げ(られ)る者は常に自身の思考に漠然と内在する「小説の小説性」を意識的/無意識的に暗黙の評価軸にしているのだと言うべきだろう。すなわち「これは小説ではない」という否定文こそが、ならば何が「小説」であるのか、という問いを剔出するのである。
 この「小説の小説性」は、小説の定義とは似て非なるものである。たとえばウィキペディアで「小説」の項目の定義を見ると、


小説は作者が自由な方法とスタイルで、人間や社会を描く様式。フィクションは、散文で作成された虚構の物語として定義される。

とある。「大辞林 第三版」で「小説」の定義を引くと、

文学の一形式。散文体の文学で、一八世紀以後、近代市民社会の生活・道徳・思想を背景に完成した。作者が自由な方法とスタイルで、不特定多数の読者を対象に人間や社会を描く様式。

とある。「世界大百科事典 第2版」では、

小説は詩や劇文学と違って、形態、内容ともに極度に自由な文学様式で、正確な定義を下すことは不可能である。しかしふつうにこれは小説らしい小説だとか、風変りな小説だとかいうとき、そこには漠然とした小説の概念が基準となっていることも事実で、それはだいたい西欧の19世紀に完成したリアリズム小説の概念にもとづいている。この標準的な小説概念によると、小説とは散文による相当な長さの虚構物語(フィクション)で一定のまとまりと構造をもち、現実生活に即した人物と事件を扱うものをいう。

とある。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」では、

散文で書かれた虚構の物語。ある程度以上の長さと複雑さをそなえ、想像力を用いて、ある特定の状況下で一群の人間がかかわる一連の出来事を通じて、人間の経験が描かれたもの。

とある。「デジタル大辞泉」では、

《坪内逍遥がnovelに当てた訳語》文学の一形式。特に近代文学の一ジャンルで、詩や戯曲に対していう。作者の構想のもとに、作中の人物・事件などを通して、現代の、または理想の人間や社会の姿などを、興味ある虚構の物語として散文体で表現した作品。


 とある。複数の定義には重なる部分も多いが、個々の記述に差異や特徴も見て取れる。だが総じてやや古めかしい印象は拭えない(特に私が問題だと思うのは「人間」という語の重用である)。「世界大百科事典 第2版」は定義を半ば諦めてしまっているが、これがもっとも実相に近い定義だとも思えてくる。しかしいずれにせよ、これらの定義には「小説」という芸術様式/表現形式の歴史的由来やジャンルとしての特性が述べられてはいても、そこに読まれる要項をチェックリストのようにして分別されてくる「小説」は、せいぜい「これは小説ではない」が逆接的に炙り出す「小説の小説性」の、もっとも広く見積もった外縁を規定し得ているのに過ぎない。
 いや、それさえほんとうは違うのではないか、とこれを書いている私は思っているのだが。ともあれひとまず、それ自体はけっして間違っているわけではない幾通りかの「小説の定義」に当て嵌まるか否かと、ここで問題にしている「これは小説ではない」という言表の機能は、無関係とまでは言わないが、かなり異なる次元に属しているのだと述べておく。
 もうひとつ、ありうる誤解を退けておきたいのは、ここで言う「小説の小説性」は、趣味判断としての価値付けともいささか違うものだということである。いや、これも一種の価値判断ではあるのだが、そこではかられる「価値」は、いわゆるカント的な趣味判断とは審級が異なっている。このことは「これは小説ではない」の「小説」を「文学」に置き換えてみればわかる。「これは文学ではない」という文は明らかに趣味判断をしている。それはもちろん、もっぱら「文学」という語が(それ自体が歴史的な経緯のなかで一種の取り決めとして形成されてきたものであるとしても)主観的/客観的な価値付けの指標として機能しているからだ。「文学」も「小説」に負けず劣らず定義が曖昧な言葉だが、二者の曖昧さは種類が違う。それは「これは小説ではあるが文学ではない」という文は成立しても「これは文学ではあるが小説ではない」という文は成立し難いことにも表れている。「これは小説ではないが文学的である」なら成立しなくもないが、とりあえず今ここで言っているのは「文学」と呼ばれているカテゴリが「小説」の部分集合であり、その選別は趣味的価値判断によっている、だがそれと同じ要領で「小説」を包含する集合を設定し、そこから「小説」を括り出すことは出来ない、出来たとしても「文学」と同じことにはならない、ということである。「文学的」は「とても文学的である」や「あまり文学的でない」というように程度や割合で語られ得るが、「とても小説的である」とか「あまり小説的でない」とは通常言われない。然るに、この違いは「小説的」と「文学的」の「的」のありようの違いだと言ってもよいかもしれない。「小説的」の「的」こそ、ほとんど「小説の小説性」のことなのだが、それは「文学的」の「的」のように(それが何のことであれ)「小説」の含有率とか達成度の計測で示されるものではなく、ここであっさりと述べてしまうなら、小説が小説であるための、小説が小説になるための、(定義とは別の意味で)何らかの様態や属性を持っているかどうか、ということなのだ。そして、この「何らかの様態や属性」は個人や集団、共同体の個別的/恣意的/相対的な価値基準によって左右されるようなものではなく、具体的で実際的なもの、一言でいえば「能力」のことなのである。かつ「小説」の能力?
 では、その「能力」とは何なのか、何何なのか、ということになり、理路は循環の相を帯びてくるわけだが、よくよく考えてみれば、いやよく考えてみるまでもなく、ここまでは「これは小説ではない」という言表を、他ならぬ「小説」に差し向けることによって生じる幾らかのパラドキシカルな結果について述べてきたものの、当然ながらこの文は、本来ならば単に事実として「小説」ではない何かに向けられて、ごく普通に妥当するものである。しかし実際にはそうはならず、何故なら小説ではないものが小説ではないということはあまりにも当然であり、コンスタティヴな意味伝達としては無内容なトートロジーに等しいので、パフォーマティヴな用法として「これは小説ではない」と小説が宣言することによって「これは(も)小説である」と主張してみたり、小説にしか見えないものを「これは小説ではない」と否定してみせることで何か意味のある線引きをしようとすることになるわけである。つまりいずれにせよ「これは小説ではない」を文字通りに受け取ることなく、レトリックとして、逆説として使用/理解しているということだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)