立ち読み:新潮 2018年8月号

鳥を放つ/四方田犬彦

第一章 東京 1972

 1972年4月21日、正午を少し過ぎたばかりの頃、東都大学教養学部のキャンパスは新入生たちで賑わっていた。
 学生食堂から学生会館へと向かう通りから少し脇に入ったところに、仮店舗の書店が設けられていた。新学期のために指定された教科書や指定参考図書が、講義名を記した掲示に応じて平積みにされていた。学生たちは受講したい講義に応じ、必要なものを購入しようとして列をなしていた。授業はまだ開始されていなかった。だがすでに履修講義を決めた新入生たちは、急きたてられるかのように教科書売場に殺到していた。誰もが知りあって一週間も経っておらず、相手のことをとうてい知っているとはいえなかった。それでも語学クラス別に行われた説明会が過ぎてしまうと、彼らは互いに固まり合い、これから受けようとする講義のあれこれについて情報の交換をしあうのだった。
 髪を耳元まで被さるように伸ばした青年が一人、仮店舗から出てきた。紙袋に入れて何冊か抱えているのは、買ったばかりの教科書だった。彼はこれから学ぶことになる哲学と社会思想史の入門書を手にしながら、心に期待が湧き上がるのを禁じえなかった。太陽が空に高かった。青年は故郷を出るときに初めて親に買ってもらった灰色のブレザーを脱いで、ワイシャツ姿で通りを歩いてみたいと思った。彼は痩せて、いくぶん背が高かった。視界は明瞭であったが、心のなかでは何もかもがまだ形をとっていなかった。
 それでも青年は上機嫌だった。借りたばかりのアパートの近くで、家庭教師の口が見つかった。これからの大学生活が何不自由なく、円滑に進んでいくような気持ちがした。その先には曖昧ではあるが、未来が誇らしげなふりをして彼を待っているように思われた。
 生活協同組合の本店舗のある広い通りまで戻ると、さらに大勢の学生が犇めいていた。その日は大きな集会の開催される日にあたり、学生会館の手前でも、通りと通りが交差するところでも、盛んに政治集会が開かれていた。巨大な立て看板を背に、白いヘルメットを被った学生がマイクを握り、嗄れかかった声を振り絞って叫んでいた。二十人ほどが彼を取り囲むように座り込み、演説に一区切りがつくたびに合いの手を入れていた。二人がガリ版で印刷されたビラを、通行する学生たちに配っていた。青年は何気なくそれを受け取った。独特の字体で書かれた「沖縄返還」と「学費値上げ」という二つの言葉が、目に飛び込んできた。演説は早口でなされていた。耳慣れない政治用語が頻繁に登場するので、青年は付いていくのが精いっぱいで、内容を理解するまでにはいたらなかった。とはいえ集会は青年の当惑などおかまいなしに続いていった。傍らを多くの学生たちが、愉しそうにお喋りをしながら歩いていた。彼らは座り込んでいる活動家など存在していないかのように目抜き通りを闊歩し、学生食堂やサークル室へと向かっていた。青年は昼食をとろうと、学外へ出る門を探した。通りのわきには、配られたばかりのビラが何十枚も捨てられていた。
 通りの喧騒を突き抜けて、人気のない木立の間を歩き出したところで、青年は突然、四人の男たちに取り囲まれた。全員が地味な服装をし、青年より年長のように見えた。どうやら青年が教科書売場から出たあたりで彼を発見し、一人きりになる機会を窺っていたようだった。
「おい、木村きむら。こんなところにいたのか」暗緑色の革ジャンパーを着た男がいった。頭目のようだった。青年が黙っていると、男は乱暴に肩に手をやり、険しい顔をみせた。配下らしい三人がただちに青年の退路を塞いだ。青年は一人が大きな蜻蛉眼鏡をかけているのを認めた。誰も何もいわなかった。
「すみません。ぼくは瀬能せのうというのですが」当惑した青年はそう答えた。
「いい根性だ。おまえ、名前まで替えたのか」頭目の口調が威嚇的になった。
 青年は有無をいわさぬ形で、そのまま男たちに随って歩かされた。蜻蛉眼鏡ががっしりと右腕を掴んだ。青年が抵抗すると、今度は別の男が左腕を掴んだ。一行は木立のわきの道を抜け、老朽化した教員研究棟に沿って歩いた。雑草の生い茂る径をしばらく進むと、人影はすっかり見えなくなった。青年は買ったばかりの教科書を落としてしまったが、拾うことは許されなかった。寮生のための理髪室と食堂がちらりと視界に入った。革ジャンパーの男が青年に脇見をすることを禁じた。緑が少しずつ深くなっていった。一行はやがて広々とした沼のあたりに出た。大きな蕗の葉が茂っている。大学に通い出して間がない青年は、そこがどこなのか、皆目見当がつかなかった。春の噎せかえるような草いきれが感じられた。彼は自分の左腕を強く掴んでいる男の顔を見た。男は無表情で、ただ鼻が少し潰れて開いていた。
「人違いです。ぼくは瀬能明生あきおというのです」
 青年は名前を繰り返したが、いきなり顔を殴られた。思わず手で頬を抑えたところで、今度は後方から足を蹴りつけられたので、彼は草叢に倒れてしまった。
「お前が反戦学軍の木村だってことは、もう調べがついているんだ」
 革ジャンパーが静かにいった。困ったことになったと、青年は思った。男の言葉がよく聴き取れず、事情が掴めなかった。顔と足が痛かった。そのとき、いきなり遠くの方から青年の名を呼ぶ声がした。振り返ってみると、鮮やかな色彩が眼に入った。フラワープリントのブラウスを着た二人の少女が、こちらに向かって手を振っているのが見えた。一人は首からビーズの飾りものを垂らし、もう一人はブレスレットをした手でテニスのラケットを握っている。二人とも長い髪を真ん中から分け、バンダナをしていた。濃い緑のなかで、ヒッピー風の少女たちはひどく目立った。
 革ジャンパーは他の三人に向かって、引き上げるよう指示を下した。
「いいか、東都大にいることは覚えたからな」革ジャンパーは捨て台詞を残すと草叢を抜けた。鼻の潰れた男が一瞬振り返った。だが彼も他の仲間たちといっしょに、あっという間に姿を消した。

 事情を呑みこめないでいる明生は、自分が感じている恐怖の意味がよくわからなかった。二人の女子大生が走ってきた。息を弾ませていた。明生は自分が危機を脱出したことを理解した。彼は身を起こすと、救援者たちを見つめた。足にはまだ痛みが残っていたが、耐えられないわけではなかった。活発な方の少女が自分を賢木さかき未紀みきと名乗り、もう一人を川村かわむら麻希まきだと紹介した。明生は動揺が収まらず、しばらくは二人の顔立ちをしっかりと見定めることができなかった。
 彼女たちは一般授業に先立って、体育実習の説明会に参加したところだった。午後にはコートに出るので、テニスウェアに着替える場所を探しに歩いているうちに、キャンパスの外れに来てしまった。学生会館の更衣室に向かうこともできたが、混雑のなかで着替えをするのは気が進まなかった。そこで未知のキャンパスを少し探検してみようと思い立って、学生寮の食堂を抜け、草叢のなかに歩を進めていたところで迷ってしまい、遠くに見覚えのある同級生の姿を認めたのだった。
「知ってる人?」賢木未紀は尋ねた。明生が否定すると、二人は怪訝な表情を見せた。
「きっと道がわからなくなっちゃったんじゃない。だって歩いてたら、こんな辺鄙な場所にいきなり出ちゃうんだから」川村麻希がいった。
 田舎から出てきたばかりの青年は、冷静にならなければいけないと、自分にいい聞かせた。この子たちは暴力の現場を目撃していなかったのだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)