立ち読み:新潮 2018年8月号

生きものとして狂うこと――震災後七年の個人的な報告/木村友祐

 こんばんは。木村友祐と申します。
 七年前に起きた東日本大震災が、日本という国に何をもたらしたかについて、ここにお集まりの皆さんは、よくご存知だと思います。もしかすると、事態の全体像という意味では、日本国内にいるぼくらよりも広く見渡せているのかもしれません。
 その皆さんの前で、震災の直接の当事者でもなく、震災前はもちろん、震災以後の日本の文学を代弁できるわけでもないぼくが何を語れるのかと、なかば戸惑いながらここにいます。何か話せるとすれば、震災を経験した後で小説を書こうとしたときに、ぼくのなかで起きたある変化についてです。なお、この報告でいう「文学」とは、とくに小説のことを言っています。
 でも、もしかすれば、これから話すその内容よりも、この「声」を届けることが、今回最も重要なことなのかもしれません。「声」、それは何かの比喩ではなくて、実際のこのぼくの肉声、この報告や朗読で聴いてもらう、震災にまつわることに対する怒りも戸惑いも同時に含んでいるはずの、この声を聴いていただくことに、何か大きな意味があるのかもしれません。ぼくは東の端の日本から、声を運んできたのです。
 まずは、地理的なことから、震災という出来事とぼくの、感情的な結びつき、あるいは心の距離感について、お伝えします。
 縦に細長い日本列島の上半分は、東京もふくめて「東日本」と呼ばれますが、被害がとりわけ大きかったのは、みなさんもよくご存知だと思いますが、「東北」とひとくくりに呼ばれる地域の、太平洋に接した県です。上から順にいえば、「青森県」「岩手県」「宮城県」「福島県」となります。
「東北」にはほかに「秋田県」と「山形県」があって、これは太平洋とは反対側にある日本海に面しています。この六つの県を総称して「東北」とか「東北六県」といいます。
 ぼくの郷里は、東北のいちばん上に位置する青森県です。青森県でも被害がありましたが、岩手県・宮城県・福島県にくらべれば、壊滅的な被害の度合いは少なかったので、早い段階から被災地の報道から外されました。とはいえ、東北というエリアであれほどまでの破局が起きたことは、他人事ではいられませんでした。
 なぜか。東北エリアの言葉は、言葉の訛りの感じが大体同じなのです。津波に逃げ惑う人たちの映像から聞こえた「逃げでぇ、逃げでぇ」という声が、まるで、ぼくの郷里のおばちゃんたちが発した悲鳴のように聞こえました。近所の見知ったおばちゃんたちが、逃げ遅れた人に向かって叫んでいるように聞こえました。ぼくの心に突き刺さったのは、まず、彼らの声でした。
 その痛ましさに加えて、ぼくが率直に感じた感情は、「悔しさ」です。「なぜ、東北の人たちがこんな目にあわなきゃならないのか」と。もちろん、ほかの地域ならよかったなんて言えるわけがありません。でも、やっぱり思ったのです。「よりによって、なんで東北なのか」。
 というのも、ぼくに言わせれば、それまで東北は、国内で大きな注目を浴びることのない地域でした。経済的な政策もつねに後回しで、ほとんどほったらかしにされていたんじゃないかというのが、震災前から感じていた実感です。また、海外の小説の翻訳や、外国映画の吹き替えでも、愚鈍な者や田舎者を表すときに、東北訛りが使われてきた印象があります。たとえ悪気がなくても、東北出身者は「田舎者」の記号として扱われたし、都会に出た東北出身者自身が、東北の後進性を恥ずべきものとみなしたでしょう。フランスには、そういう地域はありませんか?
 子どものころからそうした気配に接していると、自然に、東北は恥ずかしいのだという認識が刷り込まれます。だからぼくは、はじめて東京に出てきたとき、うまく人と話せなくなりました。絶対に東北の訛りを出しちゃいけないと、だれに笑われたわけでもないのに、そう思っていました。
 そういう経験は、東北出身者にかぎらず、都会に出てきた地方出身者ならだれにでもあることかもしれません。過敏に恥をかくことを恐れたぼくの性格もあったでしょう。でも、ほんとうにそれだけなのかと、震災が起こる前ですが、東北に関する歴史の本を読んで思うようになっていました。つまり、今の天皇家のルーツである大和朝廷に何度も侵略され、征服された過去があること、そして、日本の近代化の幕開けとなった明治維新の際、幕府という旧来の体制を守ろうとして革新勢力と戦い、敗れて「賊軍」とされた、それらのことが影を落としているのではないかと思うようになりました。負けてばかりで一度も主導権を握ったことのない歴史と、勝った者たちの蔑視の視線が、自信や誇りを骨抜きにしてきたんじゃないかと。
 その見方には異論があると思いますが、ぼくはそのとき、自分の劣等感の由来を、つねに従わされる側だった東北の歴史につなげて見てしまったのです。だからこそ余計に、あの震災で被災した東北の人たちが、悲しみや怒りを訴えてもいいのに、それをせずにひたすら耐えている姿に、なおさら悔しさと悲しさをおぼえたのです。
 そして、もう一つ、後悔もおぼえました。原発に関してです。
 郷里の青森県には、核の再処理施設と原発施設、核のゴミの貯蔵施設があり、現在も、新たな原発の建設が進んでいます。けれど、郷里にそれらの核施設があることについて、ぼくは何も言ってきませんでした。肯定はしていませんが、もう固定化したものですから、わざわざ反対を表明することはありませんでした。青森県内でも、話題になることがほとんどないのです。原発事故が起きた今でも、その存在を見直す雰囲気はありません。批判的な言葉が出たとしても、それに対する反論は、きまって、「じゃあ仕事はどうするの?」です。現在、核の再処理施設がある六ヶ所村では、以前は、家族と別れて他の県や東京に出稼ぎに行く者が多かったようです。原子力の関連施設ができたから、出稼ぎに出なくてもいいようになった、自治体には国から多額のカネも下りる、その利益をどう考えるんだ、ということです。
 核の再処理施設と原発があれば地元にいるみんなが満足に仕事にありつけるのか、そんなことはないと思いますが、そこで働いている地元の人たちも実際います。その人たちの仕事がなくなってもいいと気軽に言えるだろうか。そう考えると、もうそこで思考停止となりました。今でなら、「じゃあ、何万年も残る核のゴミを、未来の子どもたちに残していいのか」と言い返すと思いますが。
 そのように思考停止したまま何も言わないできたことと、福島での原発事故は、見えないところでつながっているのではないか。そう思えば、原発事故の責任は自分にもあるように思いました。東京で暮らしていながら、東京で使う電気が福島でつくられていたことを知らなかったこともふくめて、苦い後悔の念がわいてきました。

 そのように、震災は、ぼくのなかの様々な感情を揺さぶりました。かといって、震災のことを小説に書こうなんて、はじめはまったく思っていませんでした。被害の全貌もまだわからないし、ぼくは東京で暮らしていたので、被災した人たちのほんとうの胸の内もわかりません。第一、衝撃的な出来事に驚いたからといって反射的に書くなんて、文学の本来の姿ではないと思いました。事態に惑わされず、綿密に下調べして、多くの人の声を聴き、そこで得た本質に基づいて書くのが文学としてのあるべき姿だろうと。

(続きは本誌でお楽しみください。)