立ち読み:新潮 2018年8月号

街は生きている――アフター『ルポ 川崎』/磯部 涼

 その朝、目が覚めると馴染みのない部屋にいた。二日酔いを感じながら、板張りが白いペンキで塗られ、裸電球と煙感知器が取り付けられた天井をぼんやりと眺める。しばらくして、カバーに糊の感触が残った掛け布団の中で身を起こすと、三畳間の壁に素朴なタッチで手描きされた、星の輝く夜空や、カラフルな看板、灯がともったビルの絵を見回した。窓からは薄らと陽が射している。引き戸の鍵を外して開ければ、目の前の洗面所では浴衣を着た白人男性が髭を剃っていた。小さな部屋が並ぶ廊下の先から、若い女性の鼻にかかったような声が聞こえてくる。
「はい。はい。分かりました。探してみます。……あ、ありました!」
 入り口の横にあるリビング・ルームを覗くと、コードレスのイヤフォンをつけた女性はこちらに気付かず、スマート・フォンのオン・ライン・ゲームに夢中になっていた。壁に掛かった、スウィッチの切られたネオン管で象られているのは「日進月歩」の4文字。それが、この築54年になる木造家屋をリノベートしたゲスト・ハウスの名前だ。
「おはようございます。よく寝られましたか?」
 管理人を務める吉崎弘記が、コーヒーが入った紙コップを持ってリビングに顔を出した。神奈川県川崎市川崎区。戦前より労働者の街として栄えてきた同町の入り口にあたる川崎駅から徒歩10分程。日雇い労働者のための安価な宿泊施設が立ち並ぶいわゆるドヤ街である日進町の、新しい朝が始まろうとしていた。

 2017年、川崎市の総人口は150万人を突破した。政令指定都市の人口としては、横浜市、大阪市、名古屋市、札幌市、福岡市、神戸市に次ぐ7位。増加率は1位にあたる。東京と横浜という大都市に挟まれた北西南東に細長い形をしているこの市の、特に北部はかねてよりベッドタウンとしての側面を持っていたが、近年はさらに南部でも、人口が膨張し続ける都心から溢れ出した人々を受け止めるように、再開発が盛んになっている。
 例えば、南武線、横須賀線、湘南新宿ライン、東横線、目黒線が乗り入れる中原区・武蔵小杉駅周辺にはこの10数年でタワーマンションが次々と建設。真新しいイメージも相俟って、不動産・住宅に関する総合情報サイト〈SUUMO〉がまとめる「住みたい街ランキング」でも上位に居続けている。
 川崎区・川崎駅周辺も、02年のシネマ・コンプレックスやライヴ・ホールを擁する通り〈ラ
チッタデッラ〉完成以降、ショッピング・エリアとして注目を集めるようになり、中でも06年に開設された〈ラゾーナ川崎プラザ〉は、今や日本を代表するショッピングモールに数えられる。さらに同区・臨海部では、2020年の東京オリンピック開催に合わせて羽田空港との新たな連絡道路が建設中だが、川崎側の殿町地区は国家戦略特区に指定され、6月にホテル〈ザ・ウェアハウス〉がオープンしたばかりだ。
 ただ、前述したように、川崎市南部はもともとが労働者の街だった。さらに遡れば、川崎駅周辺は東海道五十三次、ふたつ目の宿場・川崎宿だったため、古くから旅客のためにいわゆる“飲む・打つ・買う”が揃っていたが、近代になり臨海部が京浜工業地帯として開発されると、それらの業種も労働者の娯楽のために更に盛んに。そして、活気があるとも柄が悪いとも言える雰囲気が醸成される。
 また、様々な土地から集まった労働者の中には朝鮮半島にルーツを持つ人々も数多くおり、日本人が住まない臨海部の湿地帯にバラック小屋を建てて、コミュニティを形成していった。しかし、彼らに対する偏見は根強く、抗するために反差別運動が盛んになる。あるいは、住民は公害に苦しみ、長い期間、損害賠償や環境改善を求める裁判を闘った。近代の川崎市南部には、開発による発展と弊害、その中から立ち上がる市民運動といった様々な要素が絡み合うダイナミズムが存在したのだ。
 やがて、製造業の衰退に合わせて工場跡地にショッピングモールやタワーマンションが建設され、現在も残っている工場は夜景の名所として観光地化、簡易宿泊所をゲスト・ハウスにリノベートする試みも始まっている。それは現代における街のダイナミズムだろう。
「ここは、地獄か?」――昨年12月、帯にそんな扇情的なフレーズを載せた書籍『ルポ 川崎』を刊行した。月刊誌『サイゾー』で2016年1月号から昨年4月号にかけて連載したルポルタージュ「川崎」に大幅な加筆を施したものである。企画の発端となったのは、15年、川崎区で立て続けに起きた中一男子生徒殺害事件と簡易宿泊所火災事件だ。
 中一男子生徒殺害事件では17歳から18歳の少年3人からなる犯人グループの身勝手な動機と殺害方法の陰惨さが世間の非難を浴びたが、彼等の中に外国にルーツを持つ者がいたことがレイシストに火をつけ、区内でヘイト・デモが繰り返されるようにもなった。簡易宿泊所火災事件では放火によって実に11人もの死亡者が出たが、犠牲者の多くは、かつて、川崎と日本の発展を支えた労働者の末路としての、高齢の生活保護受給者であったこと、収容人数を増やすために行われた違法建築が火の回りを早くしたことが衝撃をもって受け止められた。
 どちらの事件現場も川崎駅から大して離れていないどころか、前者はタワーマンションの、後者も住宅街のすぐ側である。『ルポ 川崎』ではそれらの事件を取っ掛かりとして、まるできらびやかな“天国”に変わりつつある川崎の街中に、確かに残っている“地獄”――暴力や差別、貧困、高齢化の問題を取材した。一方で、同書には「川崎の極端な側面ばかり取り上げている」という批判も少なからず寄せられた。そう感じるひとたちの中では、“天国”のイメージが“地獄”の実態を覆い隠してしまっているのかもしれない。
 ジェントリフィケーションという言葉がある。1964年、イギリスの社会学者=ルース・グラスが提唱したもので、近年ではニューヨーク州のブルックリン地区で起こった現象を論じる際のキーワードとしても広く知られている。同地区にはもともと貧困層が住んでいたが、家賃の安さに着目したアーティストや洒落た店舗が流入、イメージがクールなものに塗り替えられる。治安改善のような良い影響もあったが、家賃が高騰したことによって旧住民が追い出されてしまうという問題が発生する。果たして、川崎区で起こっていることもそのようなジェントリフィケーションなのだろうか?

「皆さん、おはようございます!」
 日曜の朝10時、まだひと通りの少ない川崎駅東口側の商店街、銀柳街に那須野純花の力強い声が響く。茶色いキャスケットから、金色の長い髪がウェーヴして広がる彼女はいわゆる“ギャル”といった雰囲気だが、その前に並んでいる20人程は老若男女、タイプも様々だ。ただし、那須野も含めて、みないち様に手袋と“green bird” と書かれた緑色のベストを身に付けている。〈グリーンバード〉は、後に渋谷区長に就任することになる長谷部健が03年に立ち上げた、街の清掃活動を行うNPO法人である。国内外に91ものチームを持ち、川崎市内だけでも6つのチームが活動。那須野は、普段、武蔵小杉チームのリーダーを務めており、この日は川崎駅チームのサポートにやってきていた。
 那須野による注意事項等の説明が終わると、彼女に先導され、各々、手袋をはめてゴミ袋とトングを持ち、ぞろぞろと歩いて行く。商店街は思いのほか綺麗だが、やはり、大通りの前の垣根にはたくさんのゴミが捨てられていた。カップ蕎麦の容器、大量のタバコの吸い殻、ビールやストロングゼロの空き缶から、どういうことか、三輪車、シュノーケルまで。それら週末の狂騒の残骸を拾い集めつつ、参加者と話をしていると、彼らの社会的立場もまた会社員、高校教員、服屋の店員、専業主婦、小学生からホームレスまで様々。清掃活動終了後に入った、ホテル〈オンザマークス〉1階の洒落たカフェで、那須野と、東口前の路上で寝泊まりしている70代の男性が向かい合って昼食を取っている様子は奇妙なようでいて、文化のるつぼである“川崎”らしくも思えた。

(続きは本誌でお楽しみください。)