立ち読み:新潮 2018年9月号

アイスピック/佐藤友哉

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 わたしは道に迷うといつも、息子の手を強く握る。定期的に通う耳鼻科の場所を忘れたり、映画館で自分たちの座席を見つけられないときなどに、つないでいた息子の手に力をこめるのだ。これまでは、なぜそんなことをするのかよくわからなかったのだが、雪深い故郷に舞い戻り、日が暮れはじめ、なのにホテルが見当たらず途方にくれ、その小さな手に圧力をかけようとした今、卒然と理解する。わたしがこまっていることを、暗に知らせるためのサインだったのだと。そしてわたしの息子はこういうとき、道に迷ったのパパ、とは言わない。そのようなことを絶対に言わない子供だった。
 十七年ぶりの故郷だった。
 戻ってくるとは思わなかったし、子連れで戻ってくるとはなおのこと思わなかった。記憶よりも長いトンネルを抜けると海が姿を現わし、都会育ちの息子は、線路のすぐそばまで打ち寄せる波を、ものめずらしそうにながめていた。乱層雲の下で荒れる海は、あの懐かしい、薄荷を煮詰めたとでもいうような冬特有の色をしていて、そこでは一隻の大型船が水平線の向こうへと進みつつあり、わたしはそこから最後の航海に出るような心細さと勇敢さを同時に獲得した。
 朝早くに家を出て、飛行機と鉄道を乗り継ぎ、この町に戻ってきたのが、今日の昼すぎだった。雪はやんでいるが、空は厚ぼったい雲に占拠されていて、いつ降り出してもおかしくない。そしてわたしは十七年ぶりの故郷で、すっかり道に迷っていた。古い家屋や倉庫などを観光資源として再利用しているこの町は、景観保全もあって当時と大きくは変わっていない。それでもマンションが建て替えられていたり、外装に古いレンガを使った新たな商業施設が作られたりしていて、微細なまちがいさがしのような、知っているはずなのにはじめてきた場所のように感じられ、軽い混乱を呼び起こした。なによりわたしは重度の方向音痴だった。小学生のときに林間学校で班長をまかされ、そうむずかしくもない山道を地図を確認しながら出発したのに、到着したのは隣の山のキャンプ場で、下級生たちから甲高い非難の声を浴びた経験がある。
「寒いか」
「大丈夫」
 息子は答えたが、夏用の長靴をはいた両脚は震えていた。寒さで縮こまっているのか、幼い体がふだんより一回り小さく見える。慣れない雪道ということを差し引いても、息子の挙動はあまりに緩慢で、突然の旅行というよろこびはすでに消えてしまった様子だった。
「ホテル、このへんらしいから、ちょっと聞いてみるね」
 わたしはコートの襟を立てた。ふだんであれば道に迷ったところで、他人に声をかけたりはしないのだが、あまり悠長なことは言っていられなかった。わたしは息子の手を引いて、通りの反対にあるガソリンスタンドに行くと、若い店員に声をかけ、このあたりにあるはずのホテルの場所を確認した。
「もしかして歩きですか」
 ガソリンスタンドの店員は幸か不幸か人当たりがよく、ホテルまでの道順を教えてくれたあと、わたしのスーツケースを見ながらそうたずねた。
「ええ……観光で。運河を見にきたんです。レンタカーはやめておきました」
「それがいいですよ。先月なんて、ちょうどこの前で観光客の車が除雪の山につっこんでましたからね。ブレーキが強すぎるんですよ。もっとこう、断続的に踏まないと」
「気をつけます」
「どちらから、いらっしゃったんですか」
 この町の出身であることは明かしたくなかったので、適当に答える。店員はわたしの嘘を信じたらしく、せっかくの旅行なのにおきのどくですと同情をしめし、町の現状を教えてくれた。
「ひどいもんですよ。さすがにこんな雪は、地元の人間だってはじめてです。そろそろ飛行機も欠航が出ると思うので、観光は早めに終えるのがいいかもしれませんよ」
「そんなにひどいんですか」
「百年に一度の大寒波じゃないかって話です。雪で道路が寸断されて、政府が支援物資を送ろうかって話もあるみたいですし、運河だって、もたもたしてたら、雪に埋まってしまうかもしれませんよ、冗談とかではなく」
 この一帯は冬になれば雪に覆われるが、今年はすさまじい強さの寒気が上空に居座っていて、春を前にしても雪融けはやってこず、各地に大きな被害をあたえているらしい。わたしはそのことを、空港に降り立ってからはじめて知った。天候についてなど考えてもいなかった。
「どこからきたの」
 店員は息子にもおなじ質問をする。ここで話に齟齬が生じてはいらぬ不信感をあたえてしまうが、わたしは息子の性格をよく理解していた。息子ははにかんだ表情を見せるだけでなにも答えなかった。少しだけ洟水がたれていた。
「お子さん、疲れているみたいですし、ホテルまで歩くとなると距離もあるから、ちょっと休んでいきますか」
 店員が気を利かせ、わたしたちを休憩スペースにうながす。息子が疲れているのは事実なので、好意に甘えることにした。暖房のよく効いた室内はとろけるように快適で、わたしはそなえつけのティーメーカーで作った紅茶に砂糖を入れたものを、息子にあたえた。息子は熱さに用心しつつ、それでもむさぼるように飲んだ。
「よくがんばったな。寒いか」
「大丈夫」
「たくさん歩かせてごめんよ。すごい雪だね」
「道がなかったよ」
「除雪が間に合っていないんだ」
「うー」
「おかげで靴が……」
「うー」
「どうした」
「うー、うー」
「洟出たのか」
 わたしが聞くと、息子はこくこくとうなずいた。
「うなってるだけじゃだめだ。ちゃんと、ティッシュちょうだいって言いなさい」
「うー」
「次からは言うんだぞ。ほら」
 ティッシュペーパーをわたすと、息子は長いあいだこらえていた不快を吐き出した。
「パパ、息ができない」
「鼻が詰まってるなら、口で息をすればいいんだ」
「できない」
「できる。猫だってできるぞ、それくらい」
「猫は、口で息できないんだよ」
「ホテルについたら、あったかいお風呂に入ろう。そうすれば鼻も通るはずだ」
「おなかすいた」
「ホテルでいっぱい食べよう」
「うん」
「明日は水族館だからな」
「パパ、はい」
 息子は笑顔のまま、洟をかんだティッシュペーパーをわたしに押しつけた。悪気がないことはわかっていたが、これまでになんども注意したことだし、さらには疲労も手伝い、瞬間的にいらっときた。
「自分で捨てなさい」
 わたしが叫ぶと、息子は自分のダウンジャケットのポケットに丸めたティッシュペーパーを入れようとしたので、室内にあるごみ箱を指差した。息子はマイペースにごみ箱まで歩いていった。わたしは息子を傷つけなかったことに安堵しつつも、つい怒鳴ってしまったことを悔い、なんとかこれをユーモアに変換できないものかと考えたが、いつもながらなにも思いつかなかった。
「ママがお仕事に行った国は、雪あるの」
 息子が不意に質問した。

(続きは本誌でお楽しみください。)