立ち読み:新潮 2018年10月号

象牛/石井遊佳

 象牛は、通称である。象でも牛でもない。合いの子でもない。象のような鼻に、牛のような体つきと間のびした顔という、とりわけ目立つ特徴に対して名を与えただけと思われる。
 背後から忍び寄るしなやかな足取りは猫そのものだし、鍵穴じみた眼は山羊そっくり、四肢はピッパラ樹の切り株、尻尾は竜王シェーシャさながらだ。
 だが必ずしもその限りでなく、でまかせに輪郭をこねては形をぬぐ。たぐいまれな模倣の能力があり、たくみに人声をまねる。また谺を作りだすことができるので、ひと晩じゅう、数百の犬の慟哭めいた歯ぎしりをおびきだして人びとを眠らせない。

 象牛に関する学術的記述は寡聞にして知らない。手近な動物図鑑類にもいっさい見出されず、旅行ガイド等でこれに言及したものもないようだ。
 本当のところあれは何なのかとこの国の人に訊いても分からない。私の留学時下宿先の主人は象と牛に似ているから象牛だろう、他に何がある? と何の疑問も感じぬ様子であったが、野菜売りの若者に訊けば、いやあれはヒマーラヤ牛だ、金物屋の婆さんは、何言ってんの? カシュミール象にきまってるでしょ云々と皆てんでんばらばら、その場で思いついたことを好き勝手に断言する。二月末から三月ごろ、暑熱の始まる間際に起こる、激しい雷を伴う数日間の暴風雨の別名だと力説する者もいた。知らない、分からないとなかなか言わないのはこの国の人々の習性だが、そもそも、街中至る所で見かけるそれが、象牛と呼ばれることを知る者すら少ない。

 註:しかしながら、しばしば象牛の存在に全く気付かぬかのごとき者さえいるのは奇妙である。例えば、象牛を指して誰かに、あれ、、は何だ? と訊ねると、私の指さす先をさっと見て、あれ、、とは何だ? と訊き返す。何度も、ほらあれ、、、あそこのサイクルリキシャーの陰で寝ているあれ、、、とか、あそこで山羊とキャベツの葉を奪いあってるあれ、、とか言っても、あれはサイクルリキシャーだ、あれは山羊だ、などと全く要領を得ない。象牛がいても見えていない振りをしなければならぬ一群の人々の存在、あるいは象牛に関する一種の禁忌に類するものの存在も推測される。

(片桐徹『愛のインド思想――「カーマ・スートラ」からタントラ文献まで』、
アジア書院 pp.256-257)

 象牛は存外人間社会に溶け込んでおり、人々の役に立つ一面も垣間見せる。
 チャーエ屋の店先で腰かけがわりにされている象牛は頻繁に見かける。白い長衣の痩せた老人の尻の下に、ティーポット型の象牛の胴体が見える。そこはゴードーリヤー交差点手前のイスラム教徒ムスリム地区で、白いムスリム帽をかぶった老人が、隣の同じくムスリムらしい老人と延々と無表情に話し込んでいた。隣で牝牛が太陽に向かって歯を剥く。水の淀んだ排水溝から仔犬がぞろぞろ出てきて、母犬の乳首を争い首を伸ばし合っては乳を吸う。この国の一月の昼は、川遊びの水から不意に浮かびあがった瞬間に似ていて、太陽にむけた顔だけ焦げるように熱く、腰から下は痺れるような冷たい水の中を行くようだ。老人たちはサモーサーや揚げ物パコーラーを摘まみあげ、バナナの葉っぱの皿の中の赤いソースをつけながら、時おり往来に濁った目を向け、突進するオートリキシャーや車やオートバイ、その間を右往左往する人と自転車とサイクルリキシャー、牛と水牛と山羊と犬と象牛をぼんやり眺める。有鉛ガソリンを燃やすポンコツエンジンが吐きだす大量の排気ガス、巻き上がる土煙と騒々しいクラクションの中、ほとんどの客は立ったまま喋り飲み食いする。先刻から老人の尻の下で小一時間ほど辛抱していた象牛は、老人が立ち去る際に揚げ物の切れ端を投げてもらっていた。

 註(1):その他、蹄で巧みにじゃがいもをつぶしたりチャーエを煮立てたりサモーサーの揚げ油を濾す象牛、また雑貨店の店先で米や豆類をふるいにかけゴミや虫を取り除く作業をしている老婆を手伝う象牛など、勤勉で実直な象牛は至る所で目に入る。あるいはお年寄りを背負って階段を上る象牛、太った客を乗せたサイクルリキシャーを助けて坂道で後方から押してやる象牛など、人助けに励む象牛も枚挙に暇がない。
 註(2):この国で冬の子供の遊びと言えば凧であるが、象牛凧も人気だ。死んだ象牛は生焼けのチャパーティーのように平べったくなり、凧にうってつけである。象牛の骸はリキシャー溜まりや水牛小屋の脇、建物と建物の隙間などに吹き溜まっており、子供たちがそこでなるべく色と形のいいのを選んで拾っているのをよく見かける。象牛のちょうど鼻に当たる部分に糸を通し、下端に紙の足をつけ使用するらしい。

(片桐前掲書 pp.377-378)

 以上、私の担当教官である片桐徹准教授による学位請求論文からの引用である。
 論文としては破格なまでに具体的描写に紙幅がさかれ、とりわけ学生時代の留学先であるヴァーラーナシーの街の情景を生彩溢れる筆致で描いた点に関し、「この論文の学術的内容と見事に一体となり、手練れのオーケストラ演奏による調和的音律を聴く思いがする」と評したのは、当インド学研究室主任教授であった中谷先生である。ヴァーラーナシーにおける象牛の諸態を描いた先の引用は、同論文の本筋とはあまり関係なく、おおむね参考部分や註などでの言及であることを念のためお断りしておく。以下、同准教授の著作より引用を続ける。

 象牛は人をからかうのが大好きだ。大きな箱型の荷車を果物で山盛りにした屋台で、あるとき私は朝食用のバナナを見つくろっていた。バナナの山からとりわけむちむちした大きな一本をつかんだところ、そのバナナがもぞもぞ探るように左右に動く。驚いて投げ出すとそれは象牛の鼻で、黄色い皮ごと形を爆発させてキャッキャッと、ハヌマーン猿の鳴き声を口真似しながら逃げていくのも小憎らしい。

  註:ハヌマーン猿ハヌマーン・ラングールはインドに広く生息するオナガザルの一種。大型の個体では体長八十センチほど、痩躯で灰褐色の体毛に包まれた叙事詩『ラーマーヤナ』で活躍する神猿ハヌマーンさながらの風貌につき、「ハヌマーンの使い」と尊ばれる。ハヌマーンガリー・ガートにほど近い寺院にも多数放し飼いされていた。神の御使いを管理するに及ばず、と寺側はいっさい関知しないが頻繁に通行人の頭をたたいて遊ぶ、観光客のリュックや腕時計を奪って逃げるなどの悶着を起こし、面倒このうえない。猿の奪ったのと同種の腕時計を、この寺のバラモンがはめていたという噂もあるが真偽は不明である。

(片桐「ガートの歴史」、『宗教都市ヴァーラーナシーの朝』、芸術書林刊 p.104)

 一度、ハヌマーンガリー・ガートと平行する泥の岸辺からほうほうのていで逃げて来る泥まみれの象牛に行き合ったことがある。ギクシャクと上下動をくり返す足を見ると、無残にも四本中三本の先が喰いちぎられたようになっていた。だが歩くにつれ一歩ごとに欠損部分がみるみる盛りあがり、しまいには傷口がゲップでもするようにピンク色の小型象牛を三個、四個と吐き出した。ふり返ると街方向への階段を駆け昇る元の象牛にはすでに尋常な四肢が復活している。その強かさも無類ながら、街中至るところ徘徊疾駆する印象の象牛だがガンジス川岸に三つある泥の岸辺にのみ、たえて象牛のうろつくのを見た記憶がない。この点、先ほどのはよほど素っ頓狂な部類であろう。この象牛にして御免こうむりたい場所があるのだから世間は広い。

(片桐「中世祭式文献における穀物料理」『アジア民俗』二十五号、pp.98-99)

 毎日前を通る肉屋のコンクリートの床に、三十歳前後の男が一人と少年が一人、胡坐をかいて鶏をつぶす作業をしている。二段に積んだ籠から、仲買人が選んだ鶏のうち一羽を無造作に取り出す。異状を感知したらしくピピピピーイ、ピーイ、ひときわ澄んだ裏声で土壇場の歌を、力の限り絶唱するのを赤い鶏冠のついた頭をつかみ、男の熟練の指が分厚いまな板の上に、置いた瞬間もうストンと刃が首を落としている。手早く首のない鶏の体を自分の腿の下に押し込むのは、首を失ったことにまだ気づかない鶏が猛ダッシュするのを防ぐためだ。鶏の体が男の膝の下でまだじたばた羽ばたこうとする。落とした鶏の頭を、まな板の前に積まれた羽や頭や蹴爪や内臓、無数の不要部位からなる血みどろのがらくたの山にむかって放り投げる。敏捷に動く手が籠から次の鶏をつかみ出す。何羽かの首を続けざまにちょん切ってから、最初の鶏に戻る。すでに死にむつんだそれを少年の両手がつかみ、羽をむしる。男が胡坐をかいた足の血まみれの指の股に刃をはさみ、赤剥けになった鶏の二本の肢の間にあてがう。手慣れた所作で股から一文字に肉を裂く。手で腹わたをつかみだす。鶏肉は左側へ、不要なものは前の赤い山へと放り投げる。くうに綴れを織るような蠅の乱舞。
(…中略…)
 およそ無駄のない職業的手練の中にも、だが手落ちは生じる。あるとき肉屋の膝の下から遁走した鶏が、虚ろな羽ばたきを繰り返しながら路上に走り出た。悪ふざけした象牛が大喜びでしゃしゃり出て、さっそく首なし象牛に化けるや首のない鶏とぴったり並び、バタバタ羽ばたく真似をしながら往生際ダンスのステップを踏む。エサを漁っていた数匹の仔犬が警笛そっくりの悲鳴をあげて逃げ、山のような鶏卵を荷ほどきしていた男を自転車ごと引き倒し、杖にすがって歩いてきた老人を爆走させた。

(片桐『インド肉食にくじき考』本三書店 pp.224-225)

 ヴァーラーナシーに来てまもなく私は、ガンジスの岸辺が座ってもの思いにふけるのに存外適さないことを痛感した。
 にもかかわらずさほど意外に思わなかったのは、右に挙げた片桐論文あるいはエッセイをかつて寝食をわすれ熟読、また執筆者ご本人の口から懇切丁寧な説明を聞く機会に再三めぐまれたことで、この町に関する知識あるいは基本的イメージが私の中に標準装備されていたからにほかならない。

(続きは本誌でお楽しみください。)