立ち読み:新潮 2011年4月号

【特別対談】人間の理を越えて/朝吹真理子羽生善治

将棋は恐ろしい

羽生 朝吹さんの小説を初めて読ませていただいたのは、デビュー作の『流跡』が「新潮」に載ったときで、掲載誌を柳瀬尚紀先生に送っていただきました。先生が絶賛されているので、どういう方なのかとずっと思っていました。その書かれている世界が何と言うか、ちょっと恐ろしいというか、かなり独特で、私がその時に思ったのは、感覚的な表現になってしまいますが「濁音がない世界」ということでした。「が」とか「ば」とか、そういうのがない。おどろおどろしさを感じさせない破裂音があり、濁ったものは残らないので、読んだ後に爽やかな気がしました。

朝吹 幸福です。濁音がない世界……はじめていただいたご感想です。

羽生 朝吹さんは将棋ファンでいらっしゃるそうですが、興味をもたれたのは、どのようなきっかけだったのですか。

朝吹 はじめはチェスでした。小学生の頃、家のマッキントッシュの中に、モノクロの暗い銅版画風のデザインで動くチェス・ソフト(『バトル・チェス』)があって、はじめはルールもわからずに遊んでいました。駒を取る時、ポーンであれば槍をつかって相手の駒を刺すんです。そうすると人形(ひとがた)をした駒が砂状になって消えていく。それが好きで、とにかくやたらと刺して楽しんでいたんです(笑)。もっと知りたい、と思うようになり『ボビー・フィッシャーのチェス入門』を読みはじめ、キャスリングといったルールを知りました。それが盤面で駒を動かしてゆくゲームとの出会いです。羽生さんは私にとって憧れの方です。ただ小学生のころ、公文式のコマーシャルに羽生さんは出られていたのですが、羽生さんも通っていたから通いなさいといやいや公文に通うことになった、という苦い思い出も……。

羽生 それはすいませんでした(笑)。

朝吹 将棋がとても面白いことにあらためて気がついたのはずっと後のことです。大学生のころ、羽生さんと柳瀬尚紀さんとの対談集『対局する言葉 羽生+ジョイス』(河出文庫)と、吉増剛造さんとの対談集『盤上の海、詩の宇宙』(河出書房新社)を読んだのがきっかけでした。将棋のおもしろさを言葉で知りました。将棋は数学に似ていて、人間の理(ことわり)と違う理で成立している気がします。昔から数学を使う化学や物理学などの科学は好きだったのですが、それらは数学を使うけれど、あくまでも人間の理を探るためのものです。将棋は人間同士がやっている行為なのに、人間が打っている脈拍とは全然違う、別の理で出来ている、という感覚が強くなりました。羽生さんが書かれていましたけれど、マス目が九×九の将棋には中心がうまれます。それが「おへそ」のような、肝心要のひとマスにみえてきます。八×八のチェスにはありませんね。

羽生 将棋がなぜ九×九なのかは今でも謎なんですよね。

朝吹 将棋はマス目の数と持ち駒の規則によって、一手からひろがる可能性の数は巨大です。チェスの消尽していく美に惹かれていましたが、規則のおもしろさに気がついてから、恐ろしいものを人間の手は作りだしてしまった、という思いでみつめています。人間同士で指しているのに人間の手から離れていき、将棋の無時間の世界に人間が入っていく、という異常な事態が起きます。そのことに魅かれて対局を見るようになりました。そうすると棋士の方々の存在がまた魅力的で……。加藤一二三(ひふみ)九段が昼用の鰻重と夜用の鰻重の代金かっきりを背広の両ポケットに分けていれて対局に臨むなど(笑)、そういう人間的な娑婆のおもしろさ、手を読む数学のおもしろさ、そして、無時間の世界に有限の時間軸が差し込まれて、ふしぎな現象が盤上に起こります。対局を観戦していると、盤上に生起している瞬間そのものが純粋な芸術だという感覚でいっぱいになります。対局には、あらゆる世界が混在していると思います。将棋そのものは乱反射していて、いかようにも見ることが出来るし、いつまでも全部を見尽くせません。

新潮 2011年4月号より