| 波 2007年7月号より |
天満ふさこ『「星座」になった人 重松 清
評伝文学を読み慣れているひとは、もしかしたら、本書の叙述スタイルに多少の困惑を抱いてしまうかもしれない。評伝やノンフィクションを職業的に書いているひとの筆づかいとは、微妙に――しかし決定的に異なっているものが、本書にはある。 「さん」が付いているのである。 副題からも明らかなとおり、本書で描かれているのは、芥川龍之介の次男・多加志。人名辞典ふうに書きつけるなら、大正十一年に生まれ、昭和二十年に亡くなっている。紛うかたなき物故者、というより、もはや「歴史」の範疇で語った方がふさわしい人物だろう。 そんな芥川多加志を、著者は「多加志さん」と呼ぶ。距離が近いのである。なにしろ冒頭で、初めて多加志の写真を手に取った著者は「あなたが多加志さん?」とつぶやくのだ。〈若いときの龍之介に非常に似ている〉多加志を〈詰襟の貴公子〉と呼び、〈美しい青年〉とも呼んで、世に知られることなく早世した多加志の生涯をたどる動機も〈どうにかして、この美しい青年を、再び太陽の下に出すことはできないものかしら……〉とリリカルに示されている。取材対象者との距離を保つことによって事実の重みを担保するノンフィクションの作法からすると、これはきわめて異例――厳しく響くかもしれない言葉をあえてつかわせてもらえば、ずいぶん思い入れ過剰な筆致なのである。 しかし、一足先に本書を読んだ人間の特権として(いや、義務として、だろうか)、あわてて言い添えておく。 著者のその過剰なまでの思い入れは、決して空回りにはなっていない。それどころか、職業的な取材を超えた「知りたい」「伝えたい」という情熱があってこそ、芥川多加志という早熟な――そして悲運な才能は、没後六十年以上をへた二〇〇七年のいま、よみがえったのである。 四歳のときに父・龍之介を亡くした多加志が、偉大な父の才能とどう向き合い、どう乗り越えようとしたのか。学生時代は仲間たちと同人誌をつくっていた多加志は、どんな無念を抱いて軍隊に召集され、戦地に散ってしまったのか……。 多加志の生涯への興趣はもちろんのこと、本書には、いわばメイキングの面白さもある。 おそらくはジャーナリスティックな取材にさほど慣れていないはずの著者は、とにかく「多加志さん」への熱い思いのみを武器に、多加志の生涯へ迫っていく。失敗はある。回り道もある。〈多加志さんの人生を探ることで、周りの人に迷惑を掛けたり、嫌な思いをさせてしまっているところがきっとある、ということは分かっていた。(略)そのことを考え始めると、心が痛くなって前に進もうという気持ちが萎えてくる〉と、立ちつくしてしまうときだってあった。その逡巡や迷い、あるいは逆に思いがけず点と点がつながったときの屈託のないよろこび、取材に協力してもらったひとへの素直な感謝の念が、本書にもう一つの――素人探偵物語とでもいうべき、とても大きな魅力をもたらしたのだ。 ジャーナリスティックな野心ではない。国文学の新資料発掘というアプローチでもない。ここにあるのは、著者の情熱だけ。青春の途上で生涯を閉じた多加志は、残念ながら一般に読まれる形での作品を遺すことはできなかった。だが、その代わりに、短くも鮮烈だった生に最もふさわしい語り部を得たのではないか。 ノンフィクションとしての本書の最大の収穫は、巻末に掲載された多加志の小説『四人』の発掘だろう。それは、著者の無私の情熱に対する「多加志さん」からのプレゼントだったのかもしれない。 (しげまつ・きよし 作家)
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