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ジーン・ワルツ
海堂尊

美貌の産婦人科医・曾根崎理恵――人呼んで冷徹な魔女(クール・ウイッチ)。人工授精のエキスパートである彼女のもとにそれぞれの事情を抱える五人の女が集まった。神の領域を脅かす生殖医療と、人の手が及ばぬ遺伝子の悪戯がせめぎあう。『チーム・バチスタの栄光』を越えるドラマティックな衝撃が あなたを襲う!

ISBN:978-4-10-306571-5 発売日:2008/03/21

立ち読み 書評 雑誌から生まれた本

1,575円(定価) 購入

波 2008年4月号より

現役医師の「最後の切り札」
那須優子


 この春、ある産婦人科が閉鎖された。福島県立南会津病院産婦人科。神奈川県とほぼ同じ面積の豪雪地帯でただ一つの産婦人科だった。勤務医は三十代の医師一人。赴任して以来、緊急連絡に備えるため風呂に浸かったことはない。眠れないし、酒はもちろん飲めない。休みは一ヶ月に半日。肉親の葬式も欠席……そんな彼の孤軍奮闘はあっけなく終わる。県が人材不足を理由に、産婦人科医の撤退を決めたのだ。
 この先、妊婦たちは山道を五時間以上かけ、産科に通うことになる。そんなに時間がかかってしまっては、陣痛が起きてから病院に向かう途中で子供が生まれるかもしれないし、道中でトラブルが起きたら、お腹の子は助からないだろう。
 福島でドミノ倒しのように産科が崩壊したのは因縁めいている。いま、全国各地で産科崩壊の危機に直面している。トリガーを引いたのは福島県で起きた妊婦の死亡事故だった。妊婦の死亡は分娩を請け負った福島県立大野病院の産婦人科勤務医の過失であるとして、死亡事故から二年後の二〇〇六年二月、福島県警は業務上過失致死の容疑で勤務医を逮捕。冒頭の医師同様、一人で同病院産婦人科を守ってきた医師は、警察官に両腕を抱えられ、頭から上着をかけられ、腰ロープに手錠と連続児童殺人犯と見まごう仰々しさで送致され、その“市中引き回し”の様子は東北のローカルニュースで一斉に放映された。
 平和ボケの日本人は、お産の現場にコウノトリや天使が舞ってると思っているのかもしれないが、現実は母親と胎児と医師が生死を賭す修羅場である。詳しいデータは本著で紹介されているので割愛するが、ときに天井まで血しぶきがあがるほど大出血することもある。それでも都市部で死亡例を聞かないのは、輸血がすぐ届く立地条件、小児科医や麻酔科医による人海戦術のおかげであって、陸の孤島に従事する一人の医師にはなす術もない。
 ところが、有識者に人権派弁護士、偏向ジャーナリスト、記者クラブ……といった官僚の寄生虫連中はこぞって医師を罵倒した。一〇〇%安全なお産ができない産科医は殺人者だと。安全なお産ができるための設備や人材が不足しているのは官僚と地方自治体の怠慢であって、医師はその尻拭い役である。安直なスケープゴートに過ぎないが、疲弊している地方の産科医を萎縮させ、撤退させるには十分だった。
 逮捕直後に開かれた日本産科婦人科学会の臨時集会で、過疎地の医師たちは窮状を訴えた。だが、同学会トップに君臨する東京大学医学部産婦人科講座は、潤沢な人材を拠出する英断には至らなかった。来賓出席した官僚も右に同じである。それどころか、崩壊の一途をたどる地方の産科を横目に、長期的な安全性を検証する名目で、東大系列の医師たちが不妊治療で生まれた子供たちを研究対象とする動きまである。
『ジーン・ワルツ』の魅力は、映画化された『チーム・バチスタの栄光』同様、先の見えないドキドキさせるストーリー展開に、お産の現実と無名の医師たちの声なき声が投影されている点にある。物語の舞台は潰れる寸前の診療所。一年前には病院長を慕う妊婦たちで賑わっていたが、過疎地の産婦人科医が業務上過失致死容疑で逮捕された事件のあおりを受けて、閉鎖を余儀なくされる。主人公は名門大学病院に勤務する女医。教授に睨まれながらも、閉院間近の診療所の最後のお産を請け負うことになる――。海堂氏が、現役医師としてのささやかな抵抗ともいうべきアイロニーを、物語にふんだんに盛り込んでいるのが、おわかり戴けるだろう。
 話を現実に戻すと、大野病院の死亡事故は、公判で新たな解剖所見が出てから流れが変わった。捜査当局の解剖所見に“見落とし”があることがわかったのだ。海堂氏がすべての作品で一貫して訴えている、異状死をめぐる司法当局のいい加減な対応は、この裁判でも争点になりつつある。病理解剖で鍛えられたであろう洞察眼と先見性には感服させられる。
 作者は本作品でも、時流に先駆けた「最後の切り札」を主人公に用意している。麻雀でいうなら字一色、大四喜、四暗刻、天和((C)海堂尊『螺鈿迷宮』)。神か悪魔の悪戯のような起死回生のあがりは、ぜひ貴方の目で見届けていただきたい。

(なす・ゆうこ 医療ジャーナリスト)

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