波 2007年2月号より

[『貧困の光景』刊行記念インタビュー]

海外の貧困を知らない、日本人の不幸

曽野綾子『貧困の光景』

曽野綾子


――曽野さんは、「新潮45」誌上で約二〇年にわたって連載をもたれていますが、近年、なぜ「貧困」をテーマにして集中連載されたのでしょうか。
 この連載を、私は二つの方向で書いています。ひとつは時事的な話題。もうひとつは身辺雑記や、自分の内面心理などに関する“記録”です。この二〇年の間、私は、日本財団とJOMAS(海外邦人宣教者活動援助後援会)の仕事で、多くの発展途上国を訪れました。援助したお金が有効に使われているかを、確認する目的で現地に行ったんです。結果的に多くの貧困の実態を見ました。そろそろ、それらを記録しておくことに意義があるように思えたのです。
――曽野さんが考える「貧困」とは、どういう状態を指すのでしょうか。
 貧しさの定義は簡単なんです。今晩の食事がないこと、それが貧困なんです。今の日本には、そんな光景はありません。もちろん、戦前や終戦直後、貧しくて苦しい時代はありました。しかしそれでも、蛇口をひねれば水は出ました。水道のない田舎でも、井戸があって手押しポンプもありました。しかし海外には、井戸はあっても、その水を入れる容器(甕やポリバケツなど)を頭に乗せて、延々と井戸まで何百メートル、あるいは何キロと歩かなければならない場所に住んでいる人たちがほとんどです。そういう光景を私は山ほど見てきました。私は小説家です。学者ではない。だから貧困に関するデータを提示したりするのではなく、私が見た光景や、接してきた人たちの人生など、見たものだけを書きました。つまり結論ではなく、データだけを記録しようと思ったんです。

  牛車が救急車

――いったい、どんな光景なのですか。
 アフリカのある村では、病人が出ると、牛車の荷台に病人を乗せ、鍋釜に薪、少しばかりの食べ物を一緒に積んで、一族総出でその牛車を押しながら、遠くの診療所へ向かいます。何日もかかるので、途中で炊事をしながら行くのです。彼らにとって、その牛車は救急車なのです。もちろん、本物の救急車も都市にはあります。しかし有料で、とても彼らに支払能力などない。一日の一家の収入は約一ドル。これは、その日の食糧代にあてなければなりません。それどころか電話もない上、過去に誰も救急車なんて呼んだことがないから、いくらかかるのか、どういうシステムになっているのか、知ってる者がいない。日本で救急車が呼べないとか、お金がないと乗せてもらえないなんて考えられますか。どこにいたって、電話すればすぐに来てくれますものね。仮に有料だったとしても、せいぜい洋服一枚買うのを我慢すれば賄えるでしょう。
――便利な都市部に住んでいたとしても、救急車は金持ちでないと呼べないのですね。
 そうです。ところが、多くの貧困地帯は道が未整備であまりに悪路なので、車がまともに走れず、時速十五キロしか出せない道もざらですからね。そうなると救急車など、あっても意味がないのです。悪路には池のような巨大な水溜りが何箇所もあって、そこへ野牛や野鳥が水を飲みに集まっている。私たち日本人には、美しい自然の光景ですけど、こういう道のおかげで救急車は通れない。よく牛飼いをしている子供が野牛の角にお腹を刺されて内臓がはみ出るような事故にあいます。ところが診療所までは、仮に救急車でも、この手の悪路を行くんですから、日本なら十分で行ける距離でも一時間かかる。それで怪我した子供たちが死んでいくんです。貧困の連鎖です。
――何とも凄まじい話で……。
 村の診療所には、脳炎で苦しむ子供がよく担ぎ込まれてきます。抗生物質さえ投与すればかなり助かるのだけど、費用がかかる。医師は、親に対して「カネを工面してこい」と言う。親は村に帰って、何とかお金をかき集め、三日後にやってくる。もうその時には遅いんです。子供は、一生、廃人として暮らします。私たちの組織で、費用を工面できない親のために基金を作ってはどうかと提案したのです。そうしたら、現地の日本人のシスターが「ムダです」と言う。「そんなことをしたら、まず医師が私たちの方から抗生物質代を取る。貧しい親の方からも工面してきたカネを取る。そして私腹を肥やして自分はベンツに乗る」と言うんです。
――いったい、そういう地域の政治は、どうなっているのでしょうか。
 そんなものはないんでしょうね。世界の隅々にまで“政治”が行き渡っていると考えるのは、日本人の幻想です。政治がいいとか悪いとか以前に、“ない”のです。政治がないと、どうなるか。女の子は、通学途中でレイプされるから、学校には行かせてもらえない。その結果、字は書けないし、計算もできない。病院でベッド数を聞いても、二人で寝ているベッドもあるし、子供は床に寝るのが常識なので、“ベッド数”の概念がない。そういう地域には、私たちの考える政治など、ないのです。

  日本人の不幸とは

――そういった世界各地の貧困の実態を“記録”した本書『貧困の光景』で、曽野さんが訴えたいことは、何だったのでしょうか。私たちも、何か行動を起こすべきなのでしょうか。
 私は、日本人を啓蒙したくて本を書いたわけではありません。ましてや、何かの効果を期待しているわけでもないのです。たまに私の本を読んで勇気付けられたとか、自殺をやめたとかいう方にもお会いしますけど、目的意識は私には一切ありません。それができるのなら、私は政治家になっていたでしょう。私は、小説家・記録者として、猟犬のような本能を駆使しながら、見たこと・感じたことを書き留めるだけです。何だか、そうすることに意味があるような気がしますから。世界には、私たち日本人には想像もつかないような暮らしがあり、人生がありますね。でも日本人は知らなさすぎる。私は、日本人の不幸は、海外の貧困の実態を知らないことだと思っています。世界は、あまりに多くの異なった要素でできている。それをまず知り、あとは、どうするべきか、各人がゆっくりお考えになるでしょう。
――近年のアメリカの姿勢にもつながるような話に思えます。
 まさに、アメリカのイラク侵攻や、フセインの逮捕・処刑がそうでした。世界は、キリスト教徒だけでできているわけではないのです。もちろんフセインの行為が正しかったとは言えません。しかし本来、アラブ世界の揉め事はアラブ内部で決着をつけるべきなのです。ブッシュ政権のアメリカには、相手を知ろうとする意識がなさすぎた。真の平和を語るには、相手の生き方や考え方、さらには人間が本来持っている残酷さまでをも理解していなければなりません。よく“反戦・平和を語り継ごう”と言う人たちがいます。これがいちばん困ってしまう。語り継ぐことで平和は築けません。ユダヤには、“血かカネを出さなければ同志ではない”という発想があるんです。生命の危険(血)か、全財産(カネ)を差し出してこそ、初めて平和を主張できるというわけです。平和とは、それほど厳しいものなんですね。だからこそ、相手を知ることが重要になる。この本が、そのためにお役に立てればうれしく思います。


(その・あやこ 作家)