吉村順三といっても、建築界以外の人はほとんど知らないだろう。戦後の日本を代表する建築家だが、丹下健三や前川國男のように時代の記念碑や人目につく建物は手がけなかったから、世間的知名度が低いのはしかたない。
でも、誰でも日本の昭和天皇とアメリカのロックフェラーは知っている。この二人の本邸を、一つは東京の中心の森の中に、一つはニューヨークの郊外の森の中に、建てたのが吉村にほかならない。一つは正月の一般参賀に出かければ目にすることは出来るが、もう一つは出かけても無理。
昭和天皇とロックフェラーの両邸宅が一人の建築家の手になるにいたった理由はここには述べないが、生前、吉村先生にインタビューした時、なぜ真珠湾攻撃直後などという仕事の乏しい時期に設計事務所を開いたのですかと聞くと、
「国が戦争を開くなら、私は事務所を開く」
とヘンな論理で答えられた。
建築家には珍しく硬骨の人だった。昭和新宮殿の建築家でありながらさほど世間にその名が流布していないのは、骨の硬度と無縁ではない。建設の途中で、宮内庁の役人がデザインについて口を出し、打ち放しコンクリートの柱を銅板で隠せといったとか聞いているが、それで降りてしまった。しかし、その間の事情については、いつものように無言のまま十一年前に亡くなられた。
建築史家にはまことに困った人で、自分から何かしゃべることはないし、聞いても一言ポツリで後がつづかない。私が、新宮殿の屋根の“納り”について、なぜそうしたか理由を聞くと、「気持ちがいいでしょ」の一言でおしまい。
口数が少なくて骨が硬いという建築界では稀な性格もあって、カリスマ的存在だった。特に、住宅を手がけようという建築家には絶対的な存在だった。住宅を手がけるからには吉村さんのように作ってみたい、そう思われていた。
その深い味わいは、誰でも分かるものではない。トレーニングを積み、あれこれ迷ったことのある建築家にしか分からない。と、私は長らく思っていたのだが、没後、教授をつとめていた東京藝大の美術館で展覧会が開かれた時、出かけて目を疑った。
プロにしかその味の分からないはずの吉村展に、観客が押しかけているではないか。中には、ひと目でシロートと分かる若者やオジさんオバさんがけっこうな数混じっている。主催者もあまりの広い反響に驚いていた。
住むという営みへのふつうの人々の関心が、このところ深化している事情がある。衣食足りて、礼節はとばし、住宅を知る時代に、ついに日本もなってきたのだろう。ヨーロッパはかねてそうだった。
住むということの本質的な普通さ、このことに気づくと、吉村順三はにわかに輝きはじめる。普通であることを正しく実現した建築表現を説明しようと思っても、なかなか言葉は見つからない。「気持ちがいいでしょ」と言うくらいしかない。
このたび、吉村順三の本が出た。これまでも建築界向けの、図面と写真だけの無口な作品集は何度も出ているが、こんどのはなんと言葉も入っている。読んでみたら六十八ページ分も入っている。
建築を目ざした頃の話しにはじまり、レーモンド事務所での修行時代のこと。具体的なことでは、建築における平面と高さの関係、基本寸法の決め方、などなど吉村建築の秘密も、さらに自然や風土と建築の関係も語られている。
スケッチ、図面、写真ももちろん入るが、写真は、生涯手を入れつづけたことで知られる名作〈南台の家〉が克明に写しとられて紹介されている。
新宮殿については写真のみで一言もないが、ロックフェラー邸については、写真に加え先生自ら語っている。
世界中の住宅を見て歩き、作った経験から“人間にとって広からず狭からず三間四方(九坪)が最適”、の吉村説に、得たりと膝を打つ建築家は多いと思う。
(ふじもり・てるのぶ 東京大学生産技術研究所教授)