波 2000年10月号より

現在のこの世を映し、願う、SFロマン

梶尾真治『黄泉がえり』

大林宣彦


 その名を言えば誰もが知っているであろうぼくの友人が、ある時、自らライターを飲み込んで大騒ぎになった。バーでお酒を飲んでいたら、隣席の二人客が頻りと「絶対」「絶対」を連発する。言葉に対して酷く潔癖な友人が「世の中、絶対という事は有り得ないだろう!」と堪り兼ねて口を挟んだところ、すかさず「でも、あなたはそのライターを、絶対に飲めないでしょう」という答えが返って来た。で、友人は手にしていたライターを、そのまま口に放り込んでしまったのだ。その大きく角ばった金属製のライターは、友人の喉仏の辺りに留ったまま、外から眺めてもその世界的に有名なデザインの形体を誇りつつ、成程この世には「絶対」という事象はあり得ないのだという真理を証明し、それから三日後、一固まりの血肉と共に友人の体外に吐き出されたのであるが、この言わば哲学的武勇談を別の場所で語っていたところ、「でも人間は、絶対に死ぬんですよねえ」と呟いた男がいる。それは咽頭の癌に冒され、余命数ヶ月と宣告されている、ぼくの別の友人であった。その場に居合せた全員が、一瞬はっとして押し黙ったのだが、その時その友人の妻君が、まことに穏やかな頬笑みで以ってこう言ったのだ。「でもあなたは、絶対にいつ死ぬと決っているわけではないわ。それはこのわたしも、ここに居る誰もがそうよ。わたしたちはみんな、いつか死ぬのよ」。
 その通りだ。ぼくらはその「いつか」に向って生きているのだ。いつかがいつであるのか知らされないまま、夫々の喜怒哀楽と共にこの世を生き続けているのだ。「いつか」とは「絶対」に対して、ぼくら人間に許された、言うなら「神の時間」である。そしてその摂理に守られて生きる事が人間の幸福であると考えるなら、間違っていつかがいつであるのかを知ってしまった人間は、いったいどんな罰を受けるのだろう? あるいはそういう運命の中でこそ、人はより美しく、賢く、神の使徒として生きることが出来得るものだろうか? そうした主題について思いを巡らせるのも、SFファンタジーという文学のジャンルを繙く、楽しみのひとつである。
 梶尾真治さんは、かつて初期短編『おもいでエマノン』の中で、絶対に死なないヒロインを創造した。彼女は故に地球上の全人類の記憶を継承していて、辛い事や悲しい事は忘れていくという人間の幸福をもぎ取られている。そしてそれは神の罰であると彼女は考えてもいる。しかし肉体ばかりは不滅ではなく、彼女の精神は様々な肉体に宿り、移ろい続ける。ある時、彼女に恋した「ぼく」はそれ故に彼女を失い、いつかまたこの世での再会を願う。やがて時は来り「ぼく」はとある駅のプラットホームで、彼女にそっくりの俤を持った見知らぬ婦人の手に引かれた、いまは幼女の姿となった彼女と出会うのである。恋の思いだけは、生き続けていたというのである。人はこれを幸福と呼ぶのか、また悲しみと呼ぶのか? つまりこれは「いつか」と「絶対」を映し出す、「刹那」と「永遠」との相剋の物語であった。
 今回のロマン『黄泉がえり』は、その題名が示す通り、ある自然の意志によってこの世に黄泉がえった死者たちの物語である。絶対であった筈の死から、再びいつか死ぬまでの生を貰ったわけだから、彼らは夫々にやり残した事や、かつての失敗を補いながら、生きる悦びを味わっている。彼らを迎えた側には彼らの死後にも持続された日常があり、夫々の事情もあるのだが、そもそもがその黄泉がえりを願われた者だけが再生したのだというのだから、さしたる混乱も無い。
 ところが彼らはやがて知る事になる。「〇月〇日、自分たちは絶対に死ぬのだ」と。ここよりこの集団劇は、ひとつの主題を強く美しく奏で始める。限りあるからこそこの生を、愛する人と共に一所懸命生き抜こう。それはあまりに「生」が疎かに、そしてまた「死」が無自覚にある現在の「この世」に対する、人間が「幸福」を創造して生きる力を願う、作者の切実な祈りでもあるようだ。こうして絶対の死を覚悟して生きる者と、いつかを畏れ、待ちながら生き続ける者とが寄り添い合って、夫々の愛を語り、伝え合う物語が展開していく。彼らに対する作者の眼は限りなく優しく、やがて死者たちは運命が定めた通り、死の世界へ帰っていくのだが、作者は敢えて作劇上のルールを侵してまで、ある死者をこの世の妻子の元に残してやったりもする。しかし作中、最も死者との関わりを自覚していなかった青年は、その愛を信じ得た瞬間、恋人との別れの時を迎える。この愛は「刹那」か「永遠」か? このまことに痛切な主題を明日に向って問い掛けつつも、それ故にこそ、この人間的な二十世紀の終りの日々の物語は極上の温りに充ちているのである。
(おおばやし・のぶひこ 映画監督)

▼梶尾真治『黄泉がえり』は、十月刊