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居酒屋百名山
太田和彦

北海道から沖縄まで、その土地に行くとなぜか自然に足が向いてしまう店……共通するのは、店全体と集う人々が醸し出す、心満たされる居心地のよさだった。地元の歴史や風土、気質さえ映すその佇まいに惹かれるように、時間を変え時季を変え、通い続けた特選百軒。いつもの席から眺めて綴る、百店百様の至福の時間――。

ISBN:978-4-10-415807-2 発売日:2010/02/22

立ち読み 書評 雑誌から生まれた本

1,575円(定価) 購入

波 2010年3月号より

居酒屋という領域
――太田和彦『居酒屋百名山』を読んで

村松友視


 著者の目のいき先、気のくばりよう、心のおきどころ、そしてそれを綴る文章の軽やかでありながらぐいと芯を突き刺し、時に味のある短篇小説を思わせる筆づかいにぐいぐいと引っぱられ、一気に“百名山”を読み終えた。著者とともに酒、肴、人、店をめぐる旅をしたような気分が、余韻として尾をひいた。
 著者はまず、北の国から居酒屋行脚の扉を開いてくれる。風土、情緒、人の熱、そしてめずらしい肴にしびれた。酢大豆、イカ塩辛の新聞紙焼き、刺身ちょっと盛り、茗荷の田楽、サンマの腹、いさじゃの塩辛と居酒屋で光る極め付の肴はきりがない。
 店のものがたりも味わいのひとつだが、旅人らしい微妙な結界をもうけ、あるところから先へ踏み込まぬ物腰に、料理屋や料亭とちがう居酒屋という領域を敬愛する、著者の心根があらわれている。
 また、「この世の味覚で旨味のある塩を超えるものはないのではないだろうか」「『静か』とはなんと豊かなものか」「ああ、幸せ。シジミは幸せの味だ」などの、極上の肴に匹敵する見事な表現は、身銭を切った人生からにじみ出た、著者ならではの滋味であるにちがいない。ちょいとここで一杯……という息継ぎの酒をそそのかされるひとくだりだ。
 その“百名山”の中に、松江の「やまいち」のおとうさん、焼津の「寿屋」のおとうさん、十条の「斎藤酒場」のおかあさん、「ほづみ亭」の宇和島流鯛めし、富山のげんげ、白浜のうつぼの一夜干しなど、私のせまい体験とどこかでかさなる人や味が出ていてなつかしかったが、「寿屋」のおとうさんがなくなり、「やまいち」のおとうさんも一昨年なくなったことなどを思い出し、そのあたりでは少ししんみりした。このようにそれぞれの参加感を抱いて読む人も多いのではなかろうか。
 そういう意味もふくんで、この『居酒屋百名山』の価値は、大きく広がっているのではなかろうか。時には短篇小説、時には芝居の場面、時には人のものがたり、時には街の変遷、時には風土の産物の紹介といった重層的な色合いが、情熱と工夫にみちた文章で綴られ、読者を居酒屋の旅へさそってくれる。
 横浜野毛の「武蔵屋」、大阪阿倍野の「明治屋」、大阪南田辺の「スタンドアサヒ」などは、短篇小説的テイストをおびて紹介されている。だが、長崎の「安楽子」では、私小説の趣きが濃くなっている。長崎に近い大村が著者の母の生地であり、そのことにからむ著者の屈託が、「安楽子」という店と強く結びついているのだ。この部分を読んで、著者がなぜ居酒屋に心をかたむけるかという謎の答えのひとひらを、おぼろげに見たような気がした。著者にとって重大な意味をもつこの店が加えられたことによって、作品がより奥行きのあるものとなったのではなかろうか。
 ただ、著者は個人的な意識のつながりの強い「安楽子」と、旅の中でおとずれた店とのあいだに、記録をする者としての情熱を込める意味で、何ら段差をもうけていない。そればかりか、“百名山”のそれぞれの店にも、心を向ける熱の強弱をつけていない。著者は、この世のあらゆる居酒屋を、全肯定する覚悟で、旅をつづけ店をたずねつづけているのではなかろうか。
 居酒屋には、居酒屋の域を超えようと志す店もあり、居酒屋に徹する気概をもつ店もあり、地域の味を提供する役割を強く意識する店もあり、家族が守る砦としての店もあり、人の味で切り抜けざるを得ぬ立場の店もあり、時には客が来なければよいがと弱気になりつつノレンを出す店もある。それでも、目の前に客が坐れば、それぞれにそのときなりの精一杯をつくして待遇する。人と酒と肴と客……それらすべてが合わさって、“居酒屋”という類稀れなる領域がつくりあげられていることが、読むうちひしひしと伝わってくるのだ。
 そのような、人間味たっぷりな全国の街の居酒屋で、神秘とも言える“普通”の花火が、夜ごと打ちあげられている。著者はその花火のすべてに礼儀を正し、全肯定のいさぎよい姿勢でその幻想的なありさまを、見あげているのである。


(むらまつ・ともみ 作家)

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