波 2003年2月号より

私は完全に包囲された!

五十嵐貴久『交渉人』

春口裕子


 夜、寝る前に読みはじめたのがいけなかった。二章ぐらいまで読んで、続きは明日にしよう――そう思ったのに。
 と、止まらん。
 この書評のために用意しておいたフセンやメモ帳は、そっちのけである。途中からは、誰の作品であるかさえも忘れ、存分に楽しんでしまった。著者の“しめしめ”という不敵な笑みが、目に浮かぶようだ。
 本書は、私にとって唯一の作家友達である五十嵐貴久さんの、ホラーサスペンス大賞受賞後第一作である。タイトルの『交渉人』――ネゴシエーターとは、人質事件が起きたときに、犯人と交渉を行い、説得をこころみる人のこと。本書の舞台は夜間の救急病院で、そこへコンビニ強盗を働いたばかりの三人組が、患者を人質に立てこもる。
 お恥ずかしい話だが、私は本書を読むまで、立てこもり犯の説得というのは、おおよそ次のようなものだろうと思っていた。
“君たちは完全に包囲されている。ムダな抵抗はやめておとなしく出てきなさい”。拡声器から発せられるダミ声と、キーンというハウリングの音。建物を取り囲む警官、マスコミ、野次馬。パトカーの赤いランプがぴかぴか光り、中継用のヘリコプターが轟音をたてて上空を飛ぶ。建物はサーチライトで照らされ、窓に犯人のシルエットが浮かびあがる。そこへ犯人の家族が現場に到着。“あなた!”、“お父ちゃん!”と悲鳴や泣き声が交錯するなか、拡声器ごしに説得が続く……。
 なんと貧困な発想だろうと、我ながら情けなくなる。が、いや、待てよ。こういうイメージは、わりに多くの人が抱いているのではないだろうか。現に本書の中でも、若い警察官が犯人に対してこんなことを言うシーンがある。「お前は自分が何をしているのかわかっているのか」、「今なら罪は軽い。おとなしく出てくるんだ」。強気な台詞と態度で、とうとう犯人を怒らせてしまう。
 実は、威圧的な態度も浪花節も、犯人の気持ちを逆なでするだけであるという。「立て籠もり事件は通常の事件捜査とは違う」のだ。
 そこで、凄腕ネゴシエーター・石田修平警視正の出番である。石田が到着するまでの間、主人公の遠野麻衣子が、ピンチヒッターとして現場に立つ。麻衣子は、かつて特殊捜査班に属し、ネゴシエーターの研修を受けていたことのある優秀なキャリア。が、当時の研修講師、石田と不倫しているというデマを流され、現在の部署――所轄署の経理課に異動させられてしまったのだ。
 麻衣子は、今もひそかに思いを寄せている石田の役に立とうと、五百人体制の現場で指揮をとる。病院には子供、老人、重症患者などがおり、一刻の猶予もない。麻衣子は「ネゴシエーターは演技者でなければならない」という石田の言葉を思い出しながら、「権限のない警察官」を演じて犯人を油断させ、盗聴器を仕込んだ携帯電話を渡すことに成功する。やがて石田が到着し、唯一の「武器」である携帯電話を通じて交渉がスタート。石田は、FBI仕込みの話術と段取りで、犯人を巧みに誘導していく。
 読んでいると、思わず「現場」に引きずりこまれてしまう。まるで自分が事件に参加しているみたいだ。前作『リカ』で“逃げ出したくなるような恐怖”を感じたのと対照的に、本書は事件の核心(病院)に少しでも近づきたくなる。スリルに満ちた現場参加型小説とでもいえばよいだろうか。私など、幾度となく犯人と接触している気分になった。時にハンバーガーを差し入れる婦警となり、時に携帯電話を届ける警官となって冷や汗をかいた。
 また、とにかく石田がカッコいい。石田の作戦どおりにいけば事件は解決する、という絶対的な信頼感を、麻衣子らと共有することができる。
 ところが風向きは突然変わってしまう。犠牲者が出たのだ。石田の作戦は失敗だったのか!? それとも――。
 作品全体に漂う緊迫感と、駆け抜けるようなスピード感が気持ちイイ。謎の男の存在や、後半のあっと驚く展開など、最後の最後まで目が離せず、ラストは心に重く響く。
 それから、読み終わったあと、もう一度本を開きたくなることは必至である。物語の展開を大きく左右することとなる“あの瞬間”と、麻衣子の有能ぶりを、確かめずにはいられない。
 読売新聞によると、二○○二年海外一○大ニュースの第一位は、モスクワ劇場占拠事件だったらしい。つい先日は国内でも、金融機関に男性が立てこもる事件が起きている。よく、劇場型と呼ばれる事件が増えていると耳にする。そんな背景もあいまって、本書からは強いメッセージが伝わってくる。遠い世界の出来事のように思えることも、決して他人事ではないのだと。

(はるぐち・ゆうこ 作家)