| 波 2007年4月号より | |
最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』 最相葉月
――これまで『絶対音感』『青いバラ』等のノンフィクション作品で、科学と人間、スポーツ、教育について問いつづけてきましたが、今回はなぜ「星新一」だったのでしょうか? 平成十三年の夏ころでしょうか。クローン羊ドリーの誕生が発表されてから、私は生命科学の動向を取材していたのですが、仕組みや社会的意義のわかりにくいクローン技術や遺伝子操作などの最先端の科学をどうすればわかりやすく伝えられるか悩んでいて、たまたま書店で『ボッコちゃん』の文庫を立ち読みしたんです。人類が子供を産めなくなって滅亡のときを迎える日々を描いた「最後の地球人」というショートショートにぐいぐい引きこまれ、最後のページを読んだ瞬間、星新一って、こんなことを書いていたのかとびっくりしました。星新一は中学時代にとても流行っていて、私自身も図書館の本を全部読破したクチですが、ストーリーはまったく覚えてなかった。星新一の一〇〇一編を再読してみようと思ったのはそのときで、二十五年ぶりの再会でした。ちょうどその秋から「サンデー毎日」でエッセイを連載することになっていましたので、現代の先端科学について私たちの抱える違和感を彼のショートショートと対話を重ねながら見据えてみようと思って書いたのが『あのころの未来 星新一の預言』でした。評伝を書こうと思ったのはその連載中です。 ――『星新一』では遺品と関係者百三十四人への徹底取材をもとに、その生涯をたどっていきます。 取材の手がかりが得られればといった職業的好奇心から遺族に遺品の整理を申し出たのですが、星新一は思いのほか、物を捨ててなかったんです。小さなメモから下書き、入稿済みの清書までそろったものもありました。あまりに厖大だったので、後世のためにもデータベースとして記録を残す必要があると考えました。書き手独自の視点が必要な取材執筆と違って、遺品整理では第三者が取捨選択を行ってはならないのが鉄則です。相反する二つのことを一つの頭で同時に行うのですから、想像以上に大変な作業でした。なんてことを始めてしまったのかと、何度も途方に暮れていました。 ――作家デビュー前は本名「親一」、デビュー後は筆名の「新一」と呼び方を変え、「親一は一度、死んだ」と書いています。それほどの劇的な変化があったのでしょうか? 星新一は大正時代に栄華を極めた大企業、星製薬の創業者星一の長男で、父親の死後に会社を継いで借金に追われた挙げ句、やむなく人手に渡します。その間の出来事は自分でもほとんど書いてなくて、熱心な読者の間では「空白の六年間」と呼ばれていました。評伝に取り組むのであれば、この謎が解明できなければ成功とはいえないと考えていましたが、遺品や当時の関係者にあたるなかで、星製薬の社長・副社長時代の肉声や記録を私は手にしていました。そこから伝わってきたのは、「親一」はいつ自ら命を絶ってもおかしくないと思えるほどの苦悩でした。債鬼に追われ、さいなまれただけでなく、人を信じる心も自身のプライドもずたずたに引き裂かれる経験をし、身内に相談もせず、ひとりで背負い、耐えていた。小説家に転身することなど考えられなかったでしょう。遺品からは子供時代の作文もたくさん見つかっているのですが、成績とまわりの評価は低く、感情表現も不得手でした。 ――一〇〇一編ものショートショートをつくる、独特な発想法と創作術があったようですね。 遺品からは、意味不明の単語やセリフがなんの脈絡もなく書かれた小さなメモも大量に見つかりました。一見すると、ゴミの山のようですが、取材を進めるうちにこれが星新一にとって創造の源となった宝の山であることがわかってきました。具体的な創作術は晩年、ある若者に伝授していたことがわかり、その内容を具体的にうかがうことができました。 ――『星新一』を書き上げ、星新一像は変わりましたか? 変わったともいえるし、変わっていないともいえます。星新一は大正十五年に生まれ、昭和の激動期を生き、作家デビュー後はひたすらショートショートを書きつづけて大人気作家としての地位を築くわけですが、一方で生涯にわたって星製薬時代の「負の遺産」を抱え込み、苦渋に満ちた人生を送りました。評論家の石川喬司さんは「読者の得たものが大きければ大きいほど、作家が失ったものは大きい」といいましたが、一〇〇一編を書き終えたあとは年齢以上に老化が進み、病に苦しみ、決して幸せとはいえない晩年を送っています。本は売れつづけていましたが、文壇では子供向けの作家とみなされ、正当に評価されない。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」になぞらえ、「ホメラレモセズ クニモサレズ」とひとり密かに自嘲してみたり、「私の本は文学じゃない。七五三の千歳飴」と冗談めかしてこぼしていたようです。私自身、中学時代に全部読み終えると、卒業した気分で忘れ去っていたのですから、星新一を苦しめた「子供の読者」のひとりだったのです。いま書き終えて、この本はあのころの「子供の読者」に向けて書かれ、そしてあのころの「子供の読者」から星新一への鎮魂歌だったのかもしれないと思いました。 (さいしょう・はづき ノンフィクションライター)
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