書籍

新潮選書 新潮クレスト・ブックス とんぼの本 全集・著作集 辞典・事典 新潮オンデマンドブックス

われらが歌う時 上
リチャード・パワーズ、高吉一郎/訳

あまりに美しい歌声は、時をも凍りつかせた――。ユダヤ人物理学者と黒人歌手が恋をする。子どもは3人。天才声楽家の長兄、凡庸なピアニストの弟、音楽に天賦の才を持ちながらも尖鋭的な活動家となってゆく妹。音楽は、時間は、家族を再びつなぐ絆となれるのか。現代世界文学の最重要作家が紡ぐ聖家族の物語、瞠目の最大作。

ISBN:978-4-10-505871-5 発売日:2008/07/31

立ち読み 書評

3,360円(定価) 購入

波 2008年8月号より

音楽としての家族年代記
若島 正


 リチャード・パワーズ。この名前を聞いただけで、読者はいささか尻込みするかもしれない。桁違いの演算処理能力を持ったスーパーコンピュータを想わせるような、とんでもない知力と馬力。物理学、生物学、音楽、美術、歴史、ヴァーチャル・リアリティなど、あらゆる領域をカヴァーしながら、しかもその複数を交差させ束ねて一つの物語に織り上げることができる、類い稀な構成力。そうした才能を搭載したパワーズの作品を手に取ると、その作品世界の中に飛び込む前に、読者はそれなりの覚悟を要求される。ましてや、今回訳出された『われらが歌う時』(二〇〇三年)は、代表作『The Gold Bug Variations』(一九九一年、未訳)に次ぐ長さで、邦訳では上下巻合わせて一〇〇〇ページを超える大長篇なのだから、思わず腰が引けてしまう読者もいるだろう。しかし、そういう心配はまったくの杞憂である。わたしが読んだかぎりでは、本書はこれまでのパワーズの全作品中でも、文章が最も読みやすい部類に属するからだ。その意味では、これまでパワーズを読んだことがない人にも勧めることができる。これでパワーズは新しい読者層を獲得するのではないか、と予想させるような作品なのである。
 まず『われらが歌う時』(The Time of Our Singing)というタイトルを見てほしい。いかにもパワーズらしく、この題名には扱われる主題群が集約的に編み上げられている。その主題群とは、「われら」、「歌」、そして「時」である。
 最初に、「歌」と「時」、すなわち音楽と時間の組み合わせから。この小説は、ディーリア・デイリーという女性歌手と、デイヴィッド・シュトロムという物理学者のあいだに生まれた、三人の子供たちを描く物語である。音楽と物理学との、文字どおりの結婚だ。これだけなら、音楽と分子生物学を縦糸にした『The Gold Bug Variations』のそれこそ変奏だと受け取られても仕方がないだろうが、パワーズはそこにもう一つ設定を追加している。すなわちこの家族において、母親は黒人であり、父親はユダヤ系の亡命ドイツ人という組み合わせなのだ。そこで三人の子供たちは生まれながらにして、人種、民族という問題を二重に抱えることになる。もう一つの主題である「われら」とは、第一義には、世間の人種差別から身を守る最小単位の集団としての家族であり、さらに第二義には、大きなまとまりとしての人種を指す。こうして『われらが歌う時』は、ある家族の年代記という体裁を取りながら、時間の流れが加わることによって、二〇世紀アメリカにおける公民権運動の歴史と自然に接続することになる。いやそれだけではない。普通だと年代記は直線的な時間の流れを要請するものだが、「過去形、現在形、未来形などといった概念は存在しない」という物理学者の父親の強い信念を裏書きするように、物語は直線ではなく前へ後ろへと曲線を描く。それはあたかも、すでに現れたモチーフを変奏して再現しながらゆっくりと進んでいく交響曲のようでもあり、ところどころにアドリブを効かせたジャズの演奏のようでもある。巧みなものではないか。主題群の組み合わせが持つ可能性を物語の隅々にまで反響させ、全体を立体的に組み立てるのが、パワーズ独得の小説構成法なのだ。
 このように書けば、『われらが歌う時』はいかにも知的な産物のように思われるかもしれない。そしてもちろんそういう側面があることを、わたしも否定しない。しかし、長い物語の最後に読者を待ち受けているのは、やはり人間的な共感なのである。この物語の語り手は、三人兄弟のまんなかで、天才歌手のジョナを兄に持ち、ブラック・パンサー党に入党するルースを妹に持った、ジョーイに設定されている。それはバランスを取ろうとしたパワーズの選択であり、最初に述べた読みやすさはそのせいでもある。そしてそこには、読者の居場所も確保されているのだとわたしは思う。
 だから、読み終わったとき、家族や人種という括りを超えて、わたしたち読者も「われら」の一人として歌声の輪に加わる。きっとパワーズは、そうした読者とともに歌う時を夢見ているのに違いない。

(わかしま・ただし アメリカ文学)

今月の新刊
近刊情報

書籍から探す



発売日順に見る



すべてのジャンルを見る



RSS 書籍の新刊情報


メールマガジン

ベストセラーランキング
おすすめの一冊
映画・テレビ・舞台化作品

コロッケ『母さんの「あおいくま」』

糸井重里 ほぼ日刊イトイ新聞『できることをしよう。―ぼくらが震災後に考えたこと―』

塩野七生『十字軍物語3』

カレンダーと手帳 2012


ページの先頭へ戻る