波 2005年10月号より

未完の死

リチャード・ブローティガン『不運な女』

藤本和子


 リチャード・ブローティガンは一九八四年、カリフォルニア州ボリナスの暗い家のなかで、44口径マグナムで頭を撃ちぬいて死んだ。死後、遺品のなかから、すでに完成していた小説が発見された。それが『不運な女』である。
 六七年に『アメリカの鱒釣り』が出版されると二百万部も売れて、かれは一躍ヒッピー文学の英雄として崇められるようになった。しかししばらくすると、かれの文学を真摯に評価しようとする批評家はどんどんいなくなる。反知性主義を表明していたかれはポストモダンの文学を論じていた「知」の批評家たちを疎外したし、伝統的な物差しで文学の値打ちを測る批評家たちは、「文学の約束ごと」を壊しているだけだと非難した。ブローティガンの孤立は深まるばかりだったが、書くことをやめはしなかった。「たびたび訪れた日本は父に、人間は孤独であっても恥じることはないと教えたと思う」とかれの娘は語っている。
『不運な女』はそれまでのブローティガン文学の特質を煮詰めていった作品といえるだろう。そしてまた、「ちりのようなことを書いている」「わたしははたして何らかの役にたっているのか」という自己への不信感に動揺しつつも、「不連続性」を怖れることなく果敢に書きつづけたかれの別離の挨拶でもあった。
「不運な女」はなぜ不運なのか。語り手は自分の旅を記して、体験の「地図」を描く目的で、新しいノートを開く。かれはバークレーの古い家の一室で首を吊って自殺したある女の「不運」についてたえず考えている。命を絶つまで女を追いつめたものの正体はなにか? 執拗に問いつづけるが、試みはきまって挫折する。辿りつくのはいつも無人地帯だ。日録に記されるのは、港で烏が銜えていたホットドッグが口から突き出た小さなボートみたいだったとか、チャイナタウンではない場所で中国映画を上映していた町は異様だったとか、モンタナではさかんに雷鳴が轟くばかりで、待てど暮らせど暴風雨は到来しなかったとか、そんな話ばかりなのだ。
 おおかたノートの空白は埋まったが、縊死した女のことはなにも語れなかった。語り手の無能と敗北があらわになった。女について語ることは、宙ぶらりんの遺体をそっと床に降ろして、まともに葬ってやることを意味していた。ついに語られることのなかった自殺者は梁からぶらさがった姿であの家に永遠に置き去りにされた。女の「不運」は縊死したこと以上に、死が未完であることにあるのではないか。
 さて、この物語がかりに作者の体験に酷似していようとも、それはあくまでも「つくられた」ものである。作者が「語る」役目をあたえた語り手は失敗し、作者は語り手の不能を「語ることは可能か」という問いとして残し、去った。


(ふじもと・かずこ 翻訳家)