波 2002年12月号より

回想を失ったら、すべてを失う

アリステア・マクラウド
『灰色の輝ける贈り物』を読む

山田太一


 田舎で働きづめの両親から離れて、都会で暮す息子や娘が、多少ともそのことに罪障感を抱くというのは、ある時期までの日本人のありふれた感情であった。
 いまだってそういう気持は消えてはいないだろうが、田舎の両親もただ素朴に子どもや孫の来るのを喜んでばかりはいられなくなり、近くにコンビニもあればテレビもよく見ていて、海外旅行もすればダンス、カラオケの予定があったりして、くっきり子供たちとは別の世界を生きているわけではなくなっている。
 このカナダからの短篇集は、そのあたりの親の人生と子供の人生のちがいが、いってみれば、かつての日本のようなのである。
 作品から推測すると、作者は一九三四年生まれの私とそれほどちがわないはずだが、どの短篇もほとんど執念のように祖父母、両親の世代と、都会で暮す自分たち――姉たちとか、妻や子供たちの生活との際立った違いをモチーフにしている。
「みんな結婚して、モントリオールやトロントやアメリカに行ってしまった。こっちに帰ってくるのは容易じゃない」(「失われた血の塩の贈り物」)と親はいい、漸く帰って来た子供たちは「本物の田舎のなかへ入っていく」(「帰郷」)と感じる。
 舞台となる「田舎」は、ノヴァ・スコシア州にあるケープ・ブレトン島である。十八世紀後半に「アイルランドに不満をもつ人々、スコットランドの『ハイランド放逐』政策で牧羊のために立ち退かされた人々」それから「アメリカの独立戦争後に移って来た人々」(「船」)が住みはじめた島である。暮しかたはいろいろだったろうが、小説は、無許可の炭坑で働く人々、小さな漁港で寄り添うように暮す家族を、短篇ごとにいくらか変形して素材にしている。
 といっても十八世紀にさかのぼるわけではなく、おおむね執筆時期の一九六八年から一九七六年あたりを現在とした回想である。回想によって洗浄された祖父母、両親の世代の歳月は美しい。そこに本物の人生があった、というように。
 それにひきかえ、都会で暮す作者たちの生活は、なにもそこまで、といいたくなるほど情けなく描かれる。
 たとえば、都会へ出た「三人の息子」は、一人は高級レストランでステーキの肉片を喉につまらせて窒息死、二番目はフロリダで太陽にあたりすぎて死に、三人目はトロント近郊でジョギングをしている最中に死んでしまう(「ランキンズ岬への道」)。
 モントリオールから来た十歳の孫は、島の子供たちが、学校の先生が好きだというのを聞いて驚いてしまう。「今まで、そんなことがあるなんて思ってもみなかった」(「帰郷」)のである。
 このいくらか度が過ぎた現在への呪詛が、失われたものへの哀惜を、それだけ独自なものにしている。過去が「自分の持てるもののすべて、あるいは知っていると思っているもののすべてだ」(「ランキンズ岬への道」)と感じてしまうようなところから、作者は過去を甦らせようとしている。この「回想」を失ったら、すべてを失うとでもいうように。
「船」という処女作に描かれた父親を、私はいつまでも忘れないだろう。
 父親は漁師である。七十歳をすぎても、ロブスターのシーズンは勿論、それ以外の延縄漁も休まなかった。
 母親は七人の子供を抱え、全員の食事はもとより、ほとんどの衣類も自分で縫い、庭造りの名人で、鶏やアヒルを飼い、すべてに掃除が行き届き、見事に家を取り仕切っている。しかし、父親の部屋だけは別なのである。父の寝室だけは、暴風が吹き抜けたように散らかり、片付けてもすぐに無駄になるので、ほうっておくことになってしまった。父はそこで暇があれば本を読む。手当たり次第、なんでもだ。
 母は、父の寝室とそれが象徴するものすべてを忌み嫌い、本など一冊も読んだことはなく、子供が読んでも、時間の無駄だと大声を出して取り上げる。しかし、父は本を読む。
 時が過ぎ、ある日、末っ子の一人息子である物語の語り手は老いた父を見て、いままで考えもしなかったことだが、父は肉体的にも精神的にも漁師には向いていなかったのではないか、と感じるのである。そのあと「父に対する愛情」が静かにこみあげる。漁師以外の何者でもなかった父に。
 そんな短篇集である。

(やまだ・たいち 作家)

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