波 2008年1月号より

〈アイウエオ〉と〈いろは〉

山口謠司『日本語の奇跡―〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明―』

山口謠司


「せっかく楽しいこの世の中を、固い理屈で無が無に刻む。野暮じゃ、先生ちょとふりむいて、こちらの花をも見やしゃんせ」
 我が国に言語学(当時は「博言学」)を移植した上田萬年は、こんな都々逸をよく口にしていたという。彼は明治二十三(一八九〇)年にドイツに留学して言語学を修め、東京帝国大学文科大学博言学講座教授、帝国大学文学部長を経て、貴族院議員なども務めた。小説家・円地文子の父親、また『広辞苑』の新村出、国語学者・橋本進吉の恭敬の師である。
 上田以前、「国語」は「日本語」を指す言葉ではなかった。江戸時代、「国語」と聞けば、人は中国春秋時代の八カ国の歴史を綴った『国語』という漢籍を連想した。それまで、「日本語」は「和語」と呼ばれていたのである。
「漢語」に比べると、「和語」は優しい言葉に過ぎるきらいがある。実際、太安万侶は『古事記』を編纂するに当たって、「和語だけでは冗漫になりすぎる。かと言って、漢語では日本的な情感を書き表すことが出来ない」といった意味のことを記している。
 この悩みは、世界水準で新しい「国家」を創ろうとした明治時代においても、言語に関わった人々の脳裡に去来したに違いない。
 はたして、上田は「国語は帝室の藩屏なり。国語は国民の慈母なり」という言葉を遺している。そこで思い起こされるのが、孔子の言葉である。『論語』によれば、「師よ、もし一国の政治を任されることになったら先ず何をなさいますか?」という子路の質問に対して、次のように答えたという。
 ――必ずや、名を正さんか!
「名」とは「言葉」を意味する。上田の言葉に通じるものがあるのではないか。
 言葉は生きている。それぞれの国で、その国の言葉は時代とともに変化する。しかし、時代とともにある変化を許してもなお不変の血脈のようなものが「国語」には流れているのではないか。
 拙著『日本語の奇跡―〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明―』は、「カタカナ」の〈アイウエオ〉と「ひらがな」の〈いろは〉を通して、日本語における「不変の血脈」を探ったものである。
 同書で詳しく論じたことだが、五十音図に代表される〈アイウエオ〉は日本語のシステムを司り、「いろは歌」に代表される〈いろは〉は日本語の情緒を底辺で支えてきた。
 戦後の教育は〈いろは〉を教えなくなったが、上田の「国語」には、〈アイウエオ〉と〈いろは〉を軸とする日本語の精神が生きている。
 思うに、上田が冒頭の都々逸を口にしたのは、西洋的思想である言語学という「理屈」、情緒を培う繊細な日本語という「花」、その両輪を忘れないための自戒ではなかったのだろうか。


(やまぐち・ようじ 大東文化大学准教授、中国文献学)