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2008年6月号


【自伝的現代語訳ガイド】「それぞれの、ときどきの源氏物語」玉岡かおる

源氏物語。その豊穣かつ長尺な物語に原典で直接触れることは、現代人には難しい。
が、幸なるかな、近現代の作家たちの果敢な試みによって、
この華麗な世界が鮮やかな現代語で甦る。
少女の頃から様々な「源氏」に親しんできた著者による、「現代語訳」への手引き。




■播磨の国の物語

 こどもの頃、私の通う学校では各学年に複数のフジワラ先生がいて、周囲にはフジワラ君もフジワラさんもやたらと多かった。そのため、それぞれ名字の下に名前の最初の一文字を小さく付けて区別し、フジワラひ先生とかフジワラま君と呼びならわすのが普通だった。それでもフジワラま君が二人もいる時はさらに一字をつけ足し、フジワラまこ君にフジワラまさ君になったり。
 なぜにそんなにフジワラが多かったのか。謎は、高校生になって、古典や日本史を勉強するまで、解けなかった。
 答えはこうだ。私が生まれて育ったのは兵庫県三木市というところだが、その北東部にある広大な田園地帯は、昔、摂関家として欠けることなき満月のような権勢をふるった、あの藤原氏が荘園とした地域なのである。後には徳川幕府に学問を講じた儒学者、藤原惺窩も生誕している。直系、傍流、そのまた傍流、あるいは明治になって姓をつける時ちゃっかり藤原にした家まで含め、膨大な人口のフジワラさんが暮らしているというわけだ。
 彼らがフジワラの名をとても大事にしているのはもっともで、ご先祖が耕していたこの一帯の田んぼこそが、みやこで花開いた優美な平安文化をささえる資本基盤になっていた。数々の寺院や寝殿作り、風雅な衣装に、洗練されたお道具、絵画なども、ここから上がる収入で作られていたかもしれない。
 こうした荘園を含む瀬戸内沿いの広域を、古くは、播磨国、といった。
 律令時代のランク付けでは、上つ国、とあるから、相当にゆたかな収穫が見込める大国だったらしい。事実、穏やかで災害もめったにない天候で、広い平野は地味も肥え、農耕にはまたとない風土であった。米がとれ、しかもみやこにも近い、とくれば、受領の任地としては人気もあったのも当然で、中には、代理人に実務を押しつけて京から動かなかった不届き者もいたようだ。
 そんな播磨国とゆかりの一人に、またしてもフジワラの名を冠した有名人をみつけることができる。播磨権少掾、藤原為時。――正確には、彼を有名にしたのはその娘だ。藤原為時の娘、と表した時、その名は日本文学史上もっとも名高い作品を書いた人になる。教科書などで一般的に記される名前は紫式部。言うまでもない、源氏物語の著者である。
 つまり、私を源氏物語に結びつける最初の接点は、こんな、周囲にたくさんいたフジワラ君の縁だった。人は、身近に関連をみつけると、わがことのように親しく感じるものである。藤原為時の娘が書いた物語を、私はまるでフジワラ君のご先祖が書いたみたいに近しく思った。そしてこんな想像を繰り広げる。
 おそらく、父為時は、子らに学問をほどこす折々に、かつて勤めた播磨国府での見聞も語り聞かせたことだろう。在原業平卿がわびずまいした須磨はすぐ隣だし、淡路の島影、松の名所、大小の舟が入る明石の浦の賑わいなども珍しい。京の屋敷を一歩も出られぬ娘は、目を輝かせながら聞いたにちがいない。
 やがて、父から聞いた播磨の景色は、彼女が描く大作の中で再現されることになる。千年の長きにわたってこの国の人々を夢中にさせた『源氏物語』の中で、初めて京以外の舞台として登場する地。それが「須磨」であり、播磨の「明石」だった。そこで生まれたヒロイン明石の君は、中流貴族のフジワラ家に生まれた式部の意地を代弁するかのように、みやこの内親王にも劣らぬ女性として描かれ、登場人物中ただ一人、源氏の姫を産んで、物語をドラマティックに回していく。
 現地取材などできなかった当時としては、播磨の出現は物語に画期的な幅を持たせ、世界を広げた。読者であった多くの女性たちも、自分では訪ねて行けない播磨の地に、想像力の翼を借りて飛び立ったことだろう。
 そもそも、天にえこひいきされたかのように何もかもにひいでた光源氏が、一転、すべてを失い、試練にさらされるのがこれらの地だ。読者は、嘆き同情しながら、海辺に行き暮れる主人公を見守るわけだが、彼は播磨に来たことで、男として人間として、ひとまわりもふたまわりも大きくなっていく。
 いずれ力をたくわえ雄飛していく主人公のための、重要な場所。そんな地として播磨が描かれたことは、ここをふるさととする私には感慨深い。鄙ではあるがゆたかな風土にめぐまれたこの地は、光源氏にしたように、私や多くのフジワラさんやその他の人をも大きく育ててくれるのか。単純にも、播磨がこの名作に描かれたというそのことだけで、ふるさとを誇り、この物語を宝物と思う私だ。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。

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