小説新潮


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2010年2月号


「古手屋 喜十」宇江佐真理



        一

 浅草寺の門前は浅草広小路と呼ばれ、参詣客を当て込んだ小見世、床見世(住まいのついていない店)が軒を連ねている。大川の両岸にある両国広小路とともに、江戸の繁華な場所として有名だが、浅草広小路は特に水茶屋の多さが特徴だ。水茶屋は様子のいい茶酌女を置いて客に茶を飲ませる見世である。茶代も普通の茶店よりはるかに高い。浅草界隈の茶屋町は水茶屋に因んで名づけられたという。
 喜多川歌麿の美人画「難波屋おきた」も浅草で評判の茶酌女だった。
 浅草広小路には、その他に堂々とした金看板を掲げている老舗の薬種屋や、女性の客でいつも混んでいる絵草紙屋、わざわざ遠くから客が訪れる評判の鰻屋、蕎麦屋などもある。日中は人の往来が引きも切らないので、広小路界隈の見世は、うまみのある商売ができるようだ。
 とはいえ、不景気風に吹かれて、昨日まで順調に商売をしていた見世が今日は大戸をぴたりと下ろし、夜逃げを決め込んだりするのも世の流れ。その見世に今度は別の人間が入って新たな商売を始め、もののふた月を過ぎると、まるで十年前からそこにいるかのようになじんで見える。「日乃出屋」の主の喜十は、そうした浅草広小路の景色を眺めながら暮らして来た。
 喜十は田原町二丁目に古着の見世を構えている。界隈の人々は喜十の商売を古着屋、もしくは古手屋と呼んでいる。江戸の庶民は日々かつかつの暮らしをしているので、着る物にあまり金を掛けられない。古手屋で当座の衣服を間に合わせる者が多かった。
 喜十の見世は広小路に面しておらず、脇の小路を入った奥にあったが、古着を買う客の気持ちを慮って目立たない場所に見世を出したのではなく、元々、住まいがそこにあり、後から見世にするために造作したのだ。
 喜十はそれまで柳原の土手で商売をしていた。古手屋は富沢町、橘町、村松町、日陰町に多くあるが、有名なのは何んと言っても柳原の土手である。筋違橋から浅草橋へ至る南岸の土手は長さ十余町(約一キロ以上)に亘り、千軒もの古手屋が軒を連ねている。訪れる客の数も半端でなく、毎日が寺のご開帳のような賑わいだった。喜十は女房を娶るまで年寄りの母親との二人暮らしだった。毎朝、大八車に品物を山と積んで柳原の土手に運び、日中は床見世で商売をし、日暮れにはまた、品物を積んで家に帰るという暮らしを続けていた。田原町から柳原の土手までの道中がとにかく遠かった。十九歳の時から十年も通い続けたのは若さのせいと、母親をとにかく食べさせなければならないという気持ちからだった。今なら、たとい大金を積まれてもまっぴらである。
 柳原の見世を畳もうと考えたのは、女房のおそめに大きな理由があった。おそめは柳原の土手で自害しようとして喜十に助けられた女だった。おそめは深川の材木問屋の娘で、父親と同業の材木問屋の息子と縁談がまとまり、祝言を挙げる予定だった。ところが、父親が友人の借金を肩代わりしたことで、おそめの運命も大きく変わってしまった。当初はたかだか三十両のはずだったものが、蓋を開けてみると三百両となっていたのだ。その時、父親の友人は姿を晦まして行方がわからないありさまだった。早い話、その友人は父親を嵌めたのだ。しかし、印判をついた手前、言い訳は通らなかった。
 深川で手広く商売をしていた父親だったから、当たり前なら三百両で店を潰すことはなかったはずだが、その後、改築工事のために材木を納めた寺が火事で丸焼けとなり、代金が回収できなくなって窮地に追い込まれた。父親は心労のあまり倒れ、ひと月後に呆気なくこの世を去った。
 跡継ぎのおそめの兄は商売を立て直すことができず、店と住まい、材木置き場を人手に渡し、三人の子供を引き連れて嫁の実家に行ってしまった。嫁の実家は武州で百姓をしていたので、食べるだけは事欠かずに済むだろうと夫婦で話し合ったらしい。おそめの母親は嫁の実家に身を寄せることをよしとしなかったので、おそめと二人で江戸に残った。おそめの縁談も当然のように反故となった。それでも、母親の兄の計らいで本所の裏店に住むことができたのは幸いだった。母と娘は縫い物の賃仕事をしながら細々と暮らした。しかし、おそめの不運はさらに続いた。父親が亡くなって半年後に母親も病に倒れ、父親の後を追うように帰らぬ人となってしまった。
 もはや、生きていてもしょうがない。両親の傍に一刻も早く行きたい。おそめは死ぬことばかりを考えるようになった。
 ついにある日、おそめは伯父に黙って裏店を出ると、柳原の土手を目指した。そこは日中、古手屋が商売しているが、日暮れとともに通り過ぎる者もいない寂しい場所となる。
 世をはかなんだ者が土手に植わっている柳の樹で首縊りすることも多かった。おそめもそこで腰紐を使って自害しようと思ったのだ。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。

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