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小説新潮
立ち読み
2010年2月号
「凋落」乃南アサ
プロローグ
ポケットの中で携帯電話が震えている。咄嗟に電話をとりかけて、やめた。パチンコ台を見つめながら、つい苦笑が漏れる。怖ろしいものだ。長年の習性というヤツで、身体が勝手に反応する。もう少し夢中になっているときなら、自然に腰まで浮かしていたかも知れない。急ぎの用など、もはやあるはずがないというのに。
気を取り直して再びパチンコに集中しかかったとき、一旦は静かになった携帯電話が、また震え始めた。まったく、誰だか知らないがずい分としつこい。だが、次にリーチがかかるまでは、電話なんかに気を取られてなるものかと自分に言い聞かせて、内野弘光は新しい煙草に手を伸ばした。
「さっき何回か、電話したんだ」
二万数千円も注ぎ込んだ挙げ句、結局はすっからかんになってパチンコ店を出て、ようやく携帯電話を取り出した。着信履歴を確かめたところで、さっき電話を鳴らした相手に連絡を入れる。
「悪かったな。ちょっと取り込んでたんだ。で、何だい、どうした」
電話の向こうから、金津の声が「今日、時間あるか」と聞こえた。財布がやけに軽くなった日としては、実に有り難い誘いだ。
「ないことも、ないよ」
「じゃあ、一杯やらないか。いつもの店でいいかな。六時半には着けると思う。ああ、そっちの仕事は?」
「こっち? 分かってんだろう、何とでもなるって。了解。六時半な」
電話を切ってから、時計を見る。六時半まで、まだ二時間あまりあった。仕方がない。少しは会社に顔を出すことにしようか。せっかく金津の口利きで潜り込んだ会社だ。そうそういつも好い加減なことばかりしていては、あいつの顔に泥を塗ることになりかねない。
ブルゾンの襟を立て、ポケットに手を入れて歩きながら、ふと去年の今ごろのことを思った。つくづく、人間の運命などというものは分からないものだと思う。文字通り、一寸先は闇だ。何しろ去年の今ごろは、わずか半年ほどの間に、自分が仕事も家庭も失うことになろうなどとは、考えてみたことさえなかった。ちっぽけな安アパートで、たった一人で正月を迎えなければならなくなるなんて。さらに言えば、そんな自分と似たり寄ったりかも知れない人々から、クリスマスも正月も関係なく、滞納している家賃を取り立てるような仕事につくことになるなんて。
「お疲れっす」
事務所に戻り、自分の机にナイロン製のビジネスバッグを放り投げたところで、部長の声が「内野くん」と響いた。見ると、相手の眉根の辺りには、明らかに苛立ちらしいものが漂っている。その顔に向かって、内野は薄く笑いかけながら、ゆっくりと部長の前に立った。
「どうだった、今日の成果は」
「駄目ですね。どこも留守で」
部長の眉がぴくりと動く。それから、下から掬い上げるような目つきでこちらを見て、部長は「本当に行ってんのか」と言った。
「当たり前じゃないですか。マメに回ってます」
「白菊コーポにも?」
「ああ、一〇一ね。浅野キミ。行きましたよ、昼前に一度と、三時過ぎだったかな。両方とも留守でしたがね」
部長は、今度は口元を歪めながら、その部屋には以前の担当者を行かせたと言った。近所に取り立て先があったので、そのついでだったのだそうだ。そうして一万円だけ徴収してきたという。内野は「そうですか」とそっぽを向いた。
「じゃあ、ちょうど隙間を突いた格好になったんじゃないのかな。自分は、タイミングを掴むのが下手なんですかねえ」
部長は小さく舌打ちをして口元を歪め、さらに、鼻から荒々しく息を吐いた。
「それでも刑事だったのか? 犯人を捕まえに行って、タイミングが悪かったで済むのかねえ」
嫌な言い方をする。内野はわずかに背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んで、顎を引いた。
「張り込めっていうんなら、張り込みますよ。だけど、一晩中張り込めっていうんなら、その分の給料は出してもらわなきゃな。そこまでしても、千円か二千円しか取れないってことになると、割に合わないんじゃないですか」
相手の目を見据えて、ゆっくり、噛みしめるように言う。それまで険悪そのものだった部長の表情が一瞬だけ気弱そうになった。内野から目をそらして机の上の書類を揃えるふりなどしながら、「とにかく」と再び口を開く。
「素人じゃないっていうんなら、そろそろ本気出してもらわないとな。回収出来なけりゃあ、あんた自身の収入にも響くって、承知してるんだろう?」
ここで苛ついたところで、どうすることも出来ないのは自分でもよく分かっている。内野はもう一度大きく息を吐き出した。
「――これから夜の部に行ってきますんで」
話を切り上げるには、これが一番だった。机の上に放り出したままのバッグをもう一度取り上げて、内野はそのまま事務所を後にした。苛立ちばかりが、腹の中で蠢いている。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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