小説新潮


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2010年8月号


「仮宅」宇江佐真理


         一

 空が高く感じられるのは江戸が秋を迎えたからだろう。紅葉の時季にはまだ早いが、頬を嬲る風は、ひんやりと冷たく、冬の到来が近いことを感じさせる。天気がよければ、散歩がてら浅草寺に詣でる人々は相変わらず多い。その参詣客を当て込み、通りに面している小商いの店もそこそこ繁昌の様子である。それにしても、浅草広小路界隈が例年にない賑わいを見せているのは、吉原の遊女屋が火事で焼け、仮宅が打たれているせいもあろう。
 仮宅とは吉原の遊女屋が火災に遭った時、期間を定めて吉原以外の場所で営業することをいう。吉原の見世が本宅だから、臨時の見世は仮宅となる訳だ。仮宅では万事が略式となり、当然、揚げ代も安い。浅草での仮宅営業が七年ぶりということもあり、通り過ぎる男達の表情もいつもと違って感じられた。
 遊女屋が仮宅に使う見世は料理茶屋、水茶屋などが選ばれた。普通の民家を遊女屋に使うには、やはり不向きだからだろう。仮宅に選ばれる場所も吉原に近いせいもあって浅草が多かった。
 この度の仮宅のひとつである「巴山屋」は田原町二丁目の角にあった蕎麦屋「やぶ源」を借り受けた。やぶ源の主はこの機会に店を休み、女房と息子夫婦ともどもお伊勢参りに繰り出すという。正月以外は商いを続けていたやぶ源の家族にとって、またとない骨休みだった。蕎麦屋を休業し、お伊勢参りをしてもお釣りが来るほど巴山屋から金が入るということだろう。近所はやぶ源を羨んでいた。
 古手屋を営む喜十だって盆や正月もなしに商いをして来たので、やぶ源がつくづく羨ましかった。
 しかし、遊女屋が古手屋を仮宅に使うなど、万に一つも考えられない。ないものねだりだと了簡して諦めるより外なかった。
 やぶ源は商売道具や家財道具を近くの空き家に運び、店の片づけを済ませると慌しくお伊勢参りに旅立った。旅の手形は町名主が便宜を計らって早々に出したのだろう。仮宅が出れば町内が活気づくことを町名主は十分承知している。
 吉原の遊女屋は火事になると、即座に仮宅の手配をする。この度も火事から十日余りで浅草や本所の仮宅へ引っ越して、その三日後には営業を始めていた。
 引っ越しが済むと、遊女屋の主は深川の木場に預かっている材木ですぐさま吉原の建物の普請に掛かる。いつ何刻火事が起きても困らないように、常に建物一軒分の材木は確保しているという。
 まあ、中には材木の工面ができずに潰れてしまう見世もあるにはあったが。
 巴山屋の仮宅があるせいで、喜十の見世である「日乃出屋」の前の通りも普段より人出が多くなった。日乃出屋も田原町二丁目の通りに見世を出していた。
 日暮れともなれば、仕事を終えた職人連中が張り見世に出ている花魁、振袖新造の顔をひと目拝みたいと、血走った眼をして日乃出屋の前を通って巴山屋を目指すのだ。
「田原町に仮宅が打たれるなんて珍しいですね。たいていは大川に近い町が選ばれるのに」
 喜十の女房のおそめは見世の前を通り過ぎる男達を見ながら言った。おそめの言うように浅草での仮宅は花川戸町、並木町、三間町、南馬道町、南馬道新町、新鳥越町、橋場町、今戸町、それに山川町が主で、田原町というのは初めての例だった。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。

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