小説新潮


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立ち読み

2010年8月号


「決壊の朝」江上 剛


         1

 ある日、朝毎新聞社会部の記者、田口渉が、約束もなく広報部を訪ねてきた。社会部の記者が銀行に来るのは、何か不祥事が起きたときだ。しかし、田口は穏やかな笑みを浮かべているだけで、それらしい気配はない。
「上杉次長、お久しぶりです」
 田口は健に声をかけた。
「めずらしいな、田口さん」
 健は、それまで読んでいた雑誌を机の上に伏せて、立ち上がった。
 田口とは、彼が経済部に派遣されていたときに親しくなった。朝毎新聞は、社会部の記者を一定期間、経済部に派遣する制度がある。それは経済の知識をつけることと人脈作りが目的だった。
「社会部に戻って以来ですね、ここに来るのは……」
 田口は懐かしそうに部室内を見渡した。顔なじみの部員たちが笑顔で頭を下げる。
「コーヒーでもどう?」
「頂きます」
 健は、女性部員にコーヒーの出前を頼み、田口を応接室に案内した。
「最近、調子はどうですか」
 田口が微笑みながら言った。彼は、一般的な新聞記者のイメージからは随分かけ離れている。物静かで腰が低い。
「まあ、どうってことないね」
 すぐに喫茶室からコーヒーが運ばれてきた。
「ところで、わざわざ田口さんが来るなんて、どういう風の吹き回しなの?」
「たいしたことじゃありません」
 田口は、コーヒーに添えられた砂糖をすべて入れ、スプーンでゆっくりかきまぜた。
「ああそうなの」
「次長、総会屋って、ご存知ですか」
「えっ、総会屋? もちろん知ってるよ。実際に会ったことはないけどね」
「企業の弱みに付け込んで金をむしりとる企業ゴロ、株主としていろいろ無茶な要求をする。背景には暴力団がいるといわれています」
 田口の表情から笑みが消えた。
「その総会屋がどうかしたの?」
 健は訊いた。
「銀行は、そういう反社会的な活動をする奴らと、取引をしてはいけないことになっていますよね」
「経団連でも、反社会的勢力とは決別すると宣言している。バブルの時には暴力団に銀行や企業がかなり侵食されたから、当然だよ。それより田口さん、なに、もったいぶって」
 田口とは、腹を探り合うような仲ではない。健とは気が合い、よく居酒屋で飲んだ。橋本内閣が金融ビッグバン構想を発表したときなどは、不良債権問題が片付かないのに上手く行くはずがないと、お互い慷慨したものだ。
「これを見てください」
 田口は、内ポケットから書類を取り出し、健の目の前に置いた。不動産登記簿謄本だった。
「何なの、これ?」
 ぱらぱらとめくってみる。それはマンションの登記簿らしかった。所有者は株式会社大池産業、代表は大池勇次となっている。聞いたことのない名前だ。
「ん?」
 健の指が止まった。
 大蔵省の差し押さえの履歴がある。税金を滞納したのだろう。それにも拘わらず、大洋栄和銀行の六本木支店が二億円の融資枠を設定している。健の口の中のコーヒーが急に苦くなった。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。

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