小説新潮


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立ち読み

2010年9月号


「荻窪 小助川医院」小路幸也


        一

 その人がやってきたのは一月の最後の土曜の午後二時。
 前の日はものすごく寒くて、このまま日本は氷河期に入るんじゃないかってカメオに話していたのに、その日は急に暖かくなったんだ。外に出てもダウンなんかもちろんいらないし、ちょっと無理したらシャツ一枚でもいいんじゃないかってぐらい。
 そんな日に、焦げ茶色のパンツスーツをカチッと着こなしてバーバリーの山吹色のコートを腕に引っ掛けてオレンジ色の革の鞄を肩に掛けて、その人は現れた。
「初めまして、相良奈津子と申します」
 台所のテーブルの前、どうぞって椅子を勧めた母さんに頷いて、座る前に背筋を伸ばしながら僕に名刺を差し出した。
「あ、佳人、です」
 ちょっととまどっちゃってきちんと挨拶はできなかったけど、丁寧に名刺を受け取る格好はできたよ。ドラマや映画で見たことあるからね。そういうことをとっさにやっちゃうって自分が少しイヤになるんだけど。
「ごめんなさいね、散らかしていて」
 母さんがそう言ったのはいわゆる社交辞令というか時候の挨拶みたいなものだっていうのはわかってるけど、ちゃんと掃除もして片づけていますよ僕が、と心の中で言った。
 相良奈津子さんはにっこりと笑って首を軽く横に振った。
「とんでもないです。きちんと片づけられていて、気持ちの良いお部屋です」
 よしっ、と心の中で握り拳を作った。見栄えの良い整理整頓には自信があるんだ。
 相良さんの名刺には会社の名前の〈ブルーフォール〉と〈一級建築士〉って肩書きが書いてあった。ふわふわのくるくるの肩ぐらいまでの髪の毛は、ちゃんとそういう髪形なのかそれともくせっ毛で風が強かったのかどうか区別がつかない。でも、キレイな顔をした人だ。キレイっていうのはモデルみたいとかじゃなくて、それこそ整った顔立ちって意味で。なんかこう、マンガに描かれた優等生の女の子みたいに。
 女の子、なんていう年じゃないっていうのはわかったけどね。
 相良さんと母さんが座って、そして僕はそのままちょうどいいタイミングで落ちるようにしておいたコーヒーをサーバーからカップに入れて、「どうぞ」と出した。母さんと自分用にも。相良さんはにこにこしながらそれを見ていて「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
「ご覧の通り、男の子のくせにマメでしょ?」
 母さんが言うと、相良さんは微笑んだ。
「本当ですね。きちんとされてます」
 褒められたんだろうけど、マメになってしまったのはお母様あなたのせいですよ、と心の中で付け加えておいた。
 相良さんは、母さんのお客さんだそうだ。保険の外交員を長い間ずーっとやっている母さんは知り合いが本当に多い。
「それでね、佳人」
「うん」
「あんたにいい話があって、今日は相良さんに来てもらったの」
「いい話?」
 お客さんが来るからあんたも一緒にいてよ、と言われてたから何かはあるんだろうって思っていたけど。相良さんがこくんと頷いた。
「佳人さんは、小さいころから家の用事をされていたそうですね」
「あ、はい」
 否応なしに。
「母さんは、いや母は忙しかったので」
 父さんは僕が中学一年のときに交通事故で死んでしまった。その前から母さんは保険の外交員として働いてはいたけど、僕ら三兄妹を育てるためにますます忙しく働き出した。長男の僕は、三つ下の双子の弟と妹の面倒を見ながら、お掃除お洗濯食事の支度となんでもかんでもやらされた。
「でも、嫌いじゃなかったですけどね」


続きは本誌にてお楽しみ下さい。

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