写真家、冒険家の石川直樹さんが7月22日の皆既日食を目指し、宝島へ出かけました。独占レポートを大公開!
沖縄から奄美大島に入り、名瀬港からフェリー「としま」に乗って、トカラ列島の有人島では最南端に位置する宝島に入った。宝島は人口100人程度の小さな島である。ぼくは同じくトカラ列島の悪石島を二度ほど訪れたことがあり、宝島にも以前数日間だが滞在したことがある。
宝島は鹿児島から船で13時間以上かかり、奄美大島からだと3時間で到着する。ただし、鹿児島から宝島を行き来する船に比べると奄美大島と宝島を繋ぐ便は少なく、航空路線もないために、交通の便はすこぶる悪い。
![]() |
7月20日の夜、この島に人口よりも多い数のツアー客が上陸した。ツアー客は、島に4軒しかない民宿や唯一の小中学校(生徒数が少ないために小学校と中学校が合体している)の体育館、海岸に張ったテントなどへ分かれ、ぼくは島に住む友人の庭へテントを張った。 |
皆既日食の前日である21日は、どこで日食を観察するのがいいかロケハンをしながら島のあちこちをまわった。宝島はスティーブンソンの小説『宝島』のモデルになったといわれており、それを象徴する存在が、キャプテンキッドが財宝を隠したと伝えられる鍾乳洞である。観音堂と呼ばれる大鍾乳洞からは古い時代の鏡なども出土していて、島の聖地として信仰の対象になっている。この鍾乳洞は、何度来てもその雰囲気に慣れることができない。光が遮断された洞窟の奥の闇を見つめていると、恐れと畏れが湧き上がると同時に好奇心が失われ、どうしても足が前に進まなくなるのだ。
![]() |
キャプテンキッドが |
![]() |
鍾乳洞をはじめ、展望台や岬といった島の主要なポイントをまわった末に、翌日の日食観察場所を島の南端にある荒木崎灯台下の海岸に決めた。島をまわっていたときは青空が広がり、明日まで天気はもってくれると信じていたのだが……。 |
翌朝、テントをたたきつける風の音で夜明け前に目が覚めてしまった。テントから這いだし、まだ暗い空を見上げたが、星は見えない。強風が雲を吹き飛ばしてくれないだろうかと一縷の希望をもっていたのだが、厚い雲は日が昇ってからも決して立ち去ることはなかった。
7月22日の朝8時過ぎ、ぼくは早めに灯台の下にある海岸へ向かった。三脚を構え、替えのフィルムなどを準備して、万全の態勢で空を見上げ続けた。
太陽が欠けはじめる時間になっても、灰色の雲が空を覆っていて太陽は見えない。雨が降っていないことだけが救いだった。午前9時55分、うるさいほどに鳴いていた蝉が一斉に静かになった。海の色もいつのまにか濃度を増している。そのときは曇っているために空も海も暗く感じるのかもしれないと思っていたのだが、今思えば、あの頃から目の前の世界は確実に闇へと近づいていたのだ。
10時50分前後になると、さらに急激に暗くなったように感じ、みるみるうちに光が失われていった。太陽があるあたりの空ばかり気にしていたのだが、ふと海岸を見ると、水平線上が真っ赤になっていた。ぼくは急いでシャッターを切り(これらの写真はフィルムで撮っていたため、ウェブ上にはアップできていない)、見えない太陽をあきらめて、三脚を抱えて波打ち際へ走り寄った。食の最大の瞬間に、おそらくぼくは水平線を見つめていたと思う。時計のことなどすっかり忘れて、ただただその異常な赤い空を眺めていた。頬に冷たい風を感じる。あれだけの熱を帯びた日光が消え、鳥肌が立つほどに気温が下がっているのだ。半ば呆然と立ち尽くしていると、今度は急激に明るくなっていった。
こうして、自分の皆既日食体験ともいうべき不思議な時間は終わった。雲は途切れることがなく、太陽自体が欠けていく様は見られなかったが、その天変地異ともいうべき環境の変化にぼくは声も出なかった。夕焼けとも異なる赤い水平線が今でも頭から離れない。曇天でさえこのように感じられるのだから、皆既日食そのものを肉眼で見たとき、自分は何を想うだろう。26年後といわず、ぼくは必ずそれまでに世界のどこかで皆既日食に出会おうと決心した。現代において神秘と呼ぶに足る現象はあまりにも少なくなってしまったが、ぼくの目前で起こった環境の変化は紛れもなく神秘的であった。この体験を、自身の視覚、聴覚、触覚などを抜きにした情景として説明するのは困難だとも感じている。ニュースや新聞で見かけるのは切り取られた空の一部分であって、全体ではない。その全てを身体で受け止めたい、それが今のぼくの心からの願いである。
![]() |
2009年7月27日 |




