竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第16回 朝の散歩はじめました

 例年の通り今年も6月から午後の散歩を早朝散歩に切り換えました。日中は日差しが強くて紫外線がいっぱいなのにUVカットの日焼け止めをつけますと肌が赤くなってしまうのでつけられず、かといって散歩をやめると私の時間割が狂ってしまい、体調管理に影響いたします。そこで5時前に起きて水分補給と軽い準備運動をしてから出かける時間割に変更したわけです。

 わざわざ準備運動など大袈裟なようですが、近頃は散歩にも肩書がつきまして、「有酸素運動」というのだそうで、散歩といえども老人にとりましてはそれなりの負担がかかると専門家はおっしゃいます。特に朝はまだ体が目覚めていないのでいきなり歩き出すと心臓に負担がかかったり、血圧が急上昇したり急下降したり、或いは脱水状態になって痙攣を起こしたり、いろいろ支障がでるのだそうです。

 午前5時20分。昼間は歩く人をほとんど見かけない大聖寺界隈ですが、朝はウオーキングやジョギングをする人、犬の散歩をする人がいます。

 この時間、太陽は早くも東の空を3割近く脱し、オレンジ色の光を惜しげもなく放っています。何しろ空が広いのです。朝は早く姿を現し、夕方はいつまでも沈みません。空に滞在する時間がとても長い。その点、四方八方障害物だらけの東京の空にでる太陽は気の毒です。空での滞在時間が短いうえに中天にある時は光が高層ビルのガラスや金属にあたって反射熱をまき散らし、いやが上にも気温を上昇させます。当然のように熱中症を誘発しますので、いつのまにかお日様は悪者扱いされるようになってしまいました。それに高層ホテルに宿泊して朝を迎えますと、西側から朝日が照りつけることがあってびっくりいたします。「ヒエッ! 太陽が西から昇ってきた!」

 天変地異ではありません。東から昇ってきた朝日が反対側のビルのガラス窓に反射して、さらにそれが向かい側のビルの窓に差し込んでくるというわけです。お気の毒なお日様......。

 それにいたしましても夏の朝はいいですね。冬の朝は凍えますけれど夏の朝は都会も田舎も区別なく清々しい気分になります。ですから私、都会の高層ホテルに宿泊しているときでも早朝散歩は欠かしません。田舎とは逆に、昼間は車と人で埋まっている大きな通りや交差点やビルとビルの間を迷路のように繋いでいる道路にも人影はなく、がらーんとしていて、見慣れたデパートやブランドショップもまだ眠りから覚めていない巨人のように所在なさそう。なんだかとても新鮮です。

 今朝の散歩道は大聖寺川に沿った土手伝いの道。ここは昨年まで歩いていた牛込見附から市谷見附にかけての外濠沿いの土手とよく似ています。違いは、すぐ脇に早苗がお行儀よく並んでいる田んぼがあるかないかだけ。どこからか白鷺がすうっと飛んできて田んぼの真ん中に降り立ちました。外濠でもよく白鷺を見かけますけれど、飛んでいる姿を見かけることはほとんどありません。ところが加賀では白鷺のほかにアオサギも空を行き交うのをよく見かけます。体が大きいせいでしょうか飛ぶ高さがそれほど高くないので、歩きながら見上げても目の位置まではっきり見えます。長い首の付け根から二本揃えた細くて長い足の先までまっすぐに伸びて、広げた翼を大きく羽ばたかせながら飛翔する様子は、まるでシンクロナイズドスイミング(4月から「アーティスティックスイミング」に名称変更)の選手のように力強くて優美です。

 それから翼を動かさずに浮遊している鳶の姿はかっこいいですね。鳴き声は歌詞やお話に登場する通り、ピーヒョロヒョロと聞こえます。昔は町中にもよく鳶が飛んできたようで歌舞伎舞踊ではお馴染みの鳥ですが歌舞伎の場合、鳶の鳴き声は笛を使ってトヒヨトヒヨと鳴きます。因みに鷹もトヒヨトヒヨです。

 鳶といえば先日、面白い光景に出会いました。一羽の鳶が空中で輪を描いてから人家の屋根に隣接した電柱に止まりました。ほとんど同時に鴉が一羽その屋根に止まりました。鴉はやや遠慮がちに鳶に向かって声を挙げます。「カアカア」
 
 それが合図だったのでしょうか、別の鴉が飛んできて鳶のすぐ近くの電線に止まり、鋭い声で「カカカ・カア!」

 鳶は慌ててどこかへ立ち去って行き、二羽の鴉は何事もなかったかのようにその場に留まっていました。鴉は世知辛い世の中を生き抜く知恵を先祖代々受け継いできているのでしょうね。その点リスクも顧みず人間のそば近く寄って所持品をかすめ取っては生活の糧にする鳶は、まだまだ甘い。

 なんとなく身につまされてまた歩き始めた道の向こうを、長い貨物列車が通ります。この光景は東京の外濠沿いの線路でも早朝散歩のときに見かけました。列車といえば新幹線しか思い浮かばないこの頃ですが、ひと気の少ない時間帯にはこうして、昔ながらの貨物列車が日本中の線路を走っているのですね。早朝散歩は健康以外にも、いろいろな事柄に気づかせてくれる利点を備えているようです。

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朝5時20分、大聖寺川周辺の光景です。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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