竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第5回 下天の内を比ぶれば

 北陸の冬の天気は気まぐれです。お天気屋という移り気の代名詞にもなるくらいですから、気まぐれは当たり前と言えば当たり前ですが、こちらに移り住んでみますと、かつて私が抱いていた北陸のイメージが決して間違いではなかったことに改めて気が付きます。日が差しているのに雪が降っているのです。風花などというやさしげな降り方ではありません。ごく普通の、当たり前の雪ですが、水気の多い雪なので、空中を舞い降りてくる一粒一粒に太陽の光が当たってきらきら輝きます。

 なんですか貴重な体験をしている気分になって、ルンルン気分で歩いておりますと、急に分厚い雲が太陽を蔽い、強い北西の風が吹きつけてきて雪が渦を巻きながら降りかかってまいります。こういうとき、傘を差して橋の上を歩いていたとしたら川を吹き抜けてくる強風にあおられて、たちまちメアリー・ポピンズ状態になってしまうでしょう。傘を差しながらの空中散歩も悪くはないでしょうが、寒いですからね。それに着地の仕方を知りませんし。

 それはさておき、とにかく北陸のお天気は気まぐれで、当てになりません。ただ、雨は大抵6~7分で小休止に入り、また太陽が何事もなかったかのように照りだしますから拍子抜けいたしますね。で、声にこそ出しませんが、お天気相手に愚痴をこぼしながら歩いております。

「あーあ、ほらね、やっぱり降って来た。降ると思ったわよ。でも、どうせ長続きしないんでしょ? 馬鹿にしないでよ。お天気屋に振り回されるような私じゃありませんよっ!」てな具合。

 ぶつぶつ言っている私とすれ違った方は、怪しげな人物と思うでしょうが、有難いことにほとんど人通りがありません。歩行者は私くらい。どちら様も移動手段は自家用車が普通なのです。日用品の買い物も子供さんの通学や塾通いの送り迎えも通勤も、歩いて5~6分の所でも車を使いますから車の往来は激しいのですが、本当に人が歩いていません。

 私は、もうずいぶん長い間、毎日30分から1時間近く歩くのを日課にしておりましたから、加賀へ参りましてからもあちこち歩き廻っております。歩きませんと道が覚えられませんし、なによりも足の裏からの振動が頭のてっぺんまで伝わって体中の血の巡りがよくなるような気がするのです。その治療の効果が顕著な方は別として単に健康のためだけでしたら、お金をかけて痛い足つぼマッサージをなさることはない、と私は思っております。

 歩くときの姿勢は、背筋をピンと伸ばそうとすると得てして肩に力が入ってしまいますので、お腹を上に吊り上げるようにします。そうしますと自然に体がまっすぐに伸び、上半身も力まず、足が前に出やすくなります。

 東京の私が住んでいた辺りは坂の多い所でしたので、帰り道の急斜面では疲れを感じることもありましたが、今の住まいは平坦な地なので、いつのまにか距離が延びてしまいます。それに歩く道筋には、川が流れ、土手があり、水鳥が遊び、岸には水仙が自生しているうえに、お天気にさえ恵まれれば、雪を頂く白山の勇姿が当たり前に望めるという、目にも楽しい散歩道なのです。さらに、ごく稀に行き違う地元の方々はとてもフレンドリイで、私が遠くの白山にカメラを向けておりますと「今日は格別きれいですね」と声をかけてくださいますし、街角の案内板を見ているときなどは「どこかお探しですか?」と訊ねてくださいます。お陰で美術館や図書館や病院など目的の場所へ、無駄な遠回りをせずに行くことができました。

 かくして大した混乱もないまま転居生活を過ごしておりますが、もっとも戸惑ったことはライフラインの違いです。とにかく生れ落ちてから、6歳だった戦争中の10か月、疎開生活を経験した以外ずっと東京暮らしでしたから電気、ガス、水道、下水道、すべて都市型しか知りません。もっとも戸惑ったのが暖房器具で、灯油が主流です。実を申しますと私、これまでただの一度も灯油を使用する器具に触れたことがありません。灯油を器具に移すときに使うポンプを近くの雑貨屋さんに買いに行き、初めてなので使い方を教えて欲しいといったとき、店員さんはびっくりして「ヒエーッ」と大声をあげました。

 灯油をタンクから器具に移すときのやり方や、灯油の注文の仕方などは、日頃からお世話になっている方々からマンツーマンで懇切丁寧に教えていただきました。それでも初めのうちは、灯油をこぼしたらどうしようとか、ポンプの後始末は?とか、あれこれ思い悩み、パニックになってしまうことも度々。日々初体験の連続でしたが、その都度なにか新しい知恵がついていくようで、多少の緊張感こそが娯楽という気分になってまいりました。

 信長が好んだという幸若舞風に考えれば「人間80年。下天の内を比ぶれば、まだまだ育ち盛りなり」というところでしょうか。

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大聖寺川から見る白山(遠くの怪獣のようなものは新幹線の工事用クレーンです)

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大聖寺の川辺で野生化している水仙

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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