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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第99回 PC騒動

 パソコンを使いはじめてから二十有余年経ちます。

 原稿用紙のマス目を埋める腕一本の職業という点に魅力を感じておりましたし、40年ほど前はほとんどの方が手書きで、稀にタイプライターか、ワープロを使う方がいらっしゃったくらい。もちろん私も手書きでした。ところが7、8年経った頃、右腕右肩が凝りはじめ、遂には右の肩甲骨の下あたりに血の瘤のようなものが出来てしまったのです。この症状の治療には3年くらいかかりました。そして覚悟を決めました。右腕一本ではなく左腕も使おうと。右腕はこき使われ、左腕は無聊ぶりょうをかこつばかりなんて現状は甚だ不公平であると気が付いたわけです。

 折からパーソナルコンピューターなるものが普及して家庭用電気機器の一端を担う程の人気製品になっておりました。そこで、すでにこの文明の利器をかなり使いこなしているという従兄弟に頼んで一式買い揃え、初期設定もしてもらい、電源の入れ方、切り方からマウスやキーボードの使い方など初心者に必要と思われるあれこれを教えてもらい出発いたしましたが、今や、この機器なしでは日常の生活が成り立たないほどお世話になっております。従いまして呼び捨ては失礼と、PC氏と敬称をつけて感謝しているほどなのです。

 ところが彼奴きゃつは、いえPC氏は時々、親の仇敵に巡り合ったかと思えるほど憎い存在になります。まったく持ち主のいうことを聞かず、"この設定に切り替えろ"だの"再起動をしなさい"だの"次へ進め"だの、さんざん持ち主を振り回した挙句に、伝家の宝刀でも抜くように堂々と、思いもよらぬ手段を振りかざして、あらぬ方角へモニター上の画像を移動させたりするのです。こちらは突然、人跡未踏の世界に迷い込んだような気分。それを正常な状態に戻すために持ち主がどれほど神経を消耗し、疲労困憊の危機におちいることがあっても、PC氏はごめんなさいの一言さえ言いません。

 それでも偶然、何かのきっかけで正常に稼働するようになれば、こちらも、やれやれ、と一安心してそれまでの苦労をご破算にいたしますけれども、今回は違いました。持ち主は何も要求していないのに「お任せください、ご主人様。このソフトなら千人力です。今までの数倍も安心してお仕事が捗ること請け合いでございます」とばかりにPC氏が勝手に働き出してしまったのです。

 優秀な機能が数えきれないほど内蔵されていながら、持ち主が先端技術についての知識に乏しいために一向に活用されないことを憂いていたのかもしれません。どんな豪奢な邸宅でも人が住まなくなれば、やがては立ち腐れてしまいます。PC氏だって豊富な機能も使われなければ宝の持ち腐れ。出番のないまま、やがては時代遅れになって廃棄されてしまいます。

 PC氏はその身に内蔵する優秀な機能たちが、退屈のあまり反乱など起こさないよう時々持ち主に無断で、こっそり、その有り余る能力を発揮させ、現場の状況をさらに活動的に便利に変換させようとするのです。善意であることは分かります。優秀なアシスタントであるとも思っております。しかしながら持ち主にはそんな革新的なプログラムに対応するだけの能力が備わっていないのです。

 モニターには突然起こった革命の如き乱戦模様が展開され「えっ? 何事? 何が起こったの? どうすればいいの?」と、こちらが右往左往しているうちにPC氏側は頻繁に再起動を要求してきます。

「ご主人様、準備は整いました。お手を煩わせてまことに申し訳ないことでございますが、ここから先は身分違いの私共では手の届かぬところでございます。甚だ恐縮ではございますが、おんみずからお手をお下し遊ばしますよう御願い申し上げます」と慇懃無礼の極致ともいうべき態度に、こちらは「おのれ! 手打ちにいたす!」と叫びたい気持ちを抑えて、彼のいいなりに再起動させます。

 すると今までモニターの半分を占領していたアイコンがすべて消え、持ち主が気に入っている壁紙「中空を飛ぶ虎」が前足を真っ直ぐ伸ばし、後ろ足もしっかり伸ばして横一線になったような全身がモニター一面に映し出されました。それはうれしいのですが、消えたアイコンをどうしてくれる?!

 疲れ果てて一旦休戦。気を取り直して電源を入れますとモニターから空飛ぶ虎も消えてしまい、購入した当時のままの画面が「ご主人様、新品に生まれ変わりましてございます」と言わんばかりの晴れやかな様子で私の顔を映しておりました。

 翌日PC氏は入院。専門家の手厚く、手早い治療により早々に退院いたしました。原因は新しいソフトと先住民であるソフトとの相性が悪く、初対面の挨拶が作法通りでなかったためにお互いが背き合ってしまったからとのこと。きちんと筋を通したらあとは順調に握手ができたそうで、電源を入れますと「中空を飛ぶ虎」も真っ青な空を背景に美しいポーズで現れてくれました。

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能登の和倉温泉から日本海越しに見る日の出です。
夕日で有名な日本海ですが、入り組んだ入り江の場所によっては
海から昇る太陽を見ることもできます。

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竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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