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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第94回 火だすき

 備前焼に興味を持ったのは初めて火だすき(火襷)の壺を見た時でした。確か上野の東京国立博物館の東洋陶磁展だったと思います。

 もう50年以上も前になるでしょうか。展示されているものはほとんどが国宝、重要文化財クラスで、青磁、白磁、唐三彩、曜変天目。それから楽焼や志野焼、仁清、伊万里など。底知れぬ深みや不可思議な美を目の当たりにして、これまで経験したことのない、言いようのない心の高まりを感じておりました。それらのなかにあったのです。釉薬を用いていない素焼きの壺が。 

 美術品についての知識がほとんどない私には、まるで満天の星をかき分けて飛び込んできた河原の小石のように思えました。 

 その素焼きの壺の薄茶色の肌には、鮮やかな朱色の鋭い息吹のようなものが円やかな形に添って走り抜けていたのです。炎です。すさまじい勢いで炎の走った跡がそのまま壺の表面に残って、思いもよらぬ妖しい趣を与えていたのです。

 しかし、この時私の脳裏を過ったのは炎がもたらす芸術性だけではありませんでした。ほぼ6年間通学した小学校の校舎の壁......。備前焼の朱色の発色とは似ても似つかぬ、炎の走った黒い焦げ跡がある鉄筋コンクリート3階建ての校舎の壁を思い出したのです。


 私は昭和19年に牛込区立の津久戸国民学校(小学校)に入学いたしました。すでに戦時でありましたから物資は少なく、ランドセルは姉のお古でしたし、入学式に着た余所行きの服は、母の錦紗縮緬の着物をほどいて作り直したワンピースでした。教科書は国定教科書第5期で、年齢差のあった姉の第4期の教科書は使えず、先輩のどなたかのお下がりを譲っていただいたかもしれません。そして学校ではほとんど毎日、敵機襲来に備えた退避訓練がありました。生徒数は1クラス二十数人くらいだったでしょうか。

 先生のご指導のもと、教室から廊下に出て2列に並びまして、右手は「前へならえ」の姿勢をとり、煙対策として左手で口を塞いで進みます。地下室に避難するのです。当時はあまり深い意味も考えずに、運動場に出て遊んだり、何かの式典の際に講堂へ移動するのと同じような感覚で、この訓練を繰り返していたような気がいたします。そんな空気が一変したのは11月になって初めて東京の空に、敵機が爆音と共に出現した時からではないかと思います。遂に首都への空襲が始まったのです。そして年が明けると間もなく空襲は日ごとに激しくなって、東京は日を追うごとに焼け野原が広がっていき、私たちは伊豆の修善寺に疎開いたしました。さらにその4か月後には終戦を迎え、半年後の2月に疎開先から焼け跡にぽつんと建てられた我が家に戻って新規蒔き直しの生活が始まったわけです。

 疎開先の国民学校には2年生の1学期から3学期の初めまで10か月通学しました。その間、到着したその日に一度、飛行機の爆音を聞いたのみで至ってのどかな日々を過ごすことができましたし、学校生活も特段に辛いということはありませんでしたが、それでも焼け跡とはいえ元の場所に帰れて、元の学校(昭和22年4月1日国民学校廃止)に復学できたことはなによりうれしいことでした。


 学校は当時としては珍しい鉄筋コンクリートの3階建てで、舗装された運動場を中心にコの字形に建てられており、運動場の南側には小さいながらプールがありましたし、1、2階の教室は戦時中も授業を続けていたようでした。それにグランドピアノのある音楽室も、足踏み式の工作機械が何台も設置されている図工室も骸骨の教本が立っている理科室も、富士山が望める屋上も空襲を免れて無事でした。

 しかし3階だけは違いました。1、2階がほとんど無傷であることが嘘のように3階は教室の原形を留めないほど荒れ果てておりました。爆風で吹き飛ばされた窓ガラスが粉々に割れて床一面に散らばり、鉄製の窓枠は熱に焼かれて飴のようにグニャグニャになったうえ、そのまま固まっておりました。なにより恐ろしかったのは壁一面に残っている真っ黒な焼け焦げの跡です。廊下を高熱の炎がすさまじい勢いで走り抜けていったのでしょう。炎をまき散らしていったのは、木造家屋が建ち並んでいた周辺を焼け野原にした焼夷弾の仕業です。

 もちろん先生から「3階へ行ってはならぬ」と注意されていたのですが、行ってはいけないと言われれば行きたくなるのが人心というもの。3、4年生のころ何回かクラスメート数人と探検と称してそっと3階への階段を上がっていったものです。終戦直後のこと、人手も物資も不足している時でしたから修繕まで手が回らなかったと思われ、私たちが卒業するまで3階は手つかずのまま放置されていました。


 焼夷弾によるウクライナの戦況を聞く度に幼い頃の記憶が甦ります。炎の活用は陶器の「火だすき」のような芸術作品にのみ役立てて欲しいものだと、居ても立ってもいられない気持ちになってしまうこの頃です。

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北陸線の車窓からの風景です。
一見、海に沈む夕日のようですが、田んぼの風景です。

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竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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