前回の「加賀便り92」でヨーロッパは地続きなので旅行をするには便利で楽しい、というようなことを書きましたが、ロシアのウクライナ侵攻が始まって以来、毎日のようにテレビ画面を通じてその状況を見聞するにつれ、地続きの恐ろしさを痛感するようになりました。国境目指して山道を進行するロシア軍の、数えきれないほどの戦車を連ねた、途方もなく長い隊列。その様子を俯瞰する映像を見た時は身の毛がよだちました。聳え立つような体躯で、幾つもの山をまたいで歩いて行く怪物が暗躍する動画の一場面を見ているようで、今、現在、この地球上で起こっている事実とは思えないほどの衝撃だったのです。
飛行機からの空爆もまた凄まじいもので、炎に焼かれながら逃げ惑う人々の映像もありました。焼夷弾が使われたようですね。
焼夷弾とは、太平洋戦争末期の1945年ごろに度々耳にした単語です。私は当時、小学校1年生でしたが、「ショウイダン」という言葉は耳にこびりついております。「バクダン」という兵器があることはなんとなく知っておりましたが、「ショウイダン」はその時、初めて聞いた単語でした。当時の米軍機B29が日本のあちこちに豪雨のように降らしている強力な兵器は、落下すると同時に強力な火炎をまき散らす焼夷弾だったのです。
日本の家屋のほとんどは木と紙でできていることから、石造りの建物を粉々に砕く爆弾ではなくて、焼失を目的とする焼夷弾が選択されたと後に知りました。この時の焼夷弾は900度~1300度に達する(粘着性のある)炎を空中にまき散らすナパーム弾M69と呼ばれる特に強力なものだったようです。小弾を数本束ねて弾殻に収容し、投下して数秒後にそれが分散して炎が雨のように降り注ぐ仕組みになっていたそうです。3月10日一晩で出た死者数は10万人。その後の影響の深さを考えれば一概に比べることはできませんが、一晩の死者数としては広島の原爆による死者数とほぼ同じ数なのです。
因みにこの焼夷弾が使われた東京大空襲と伝えられるものは全部で5回(1945年3月10日、4月13~14日、4月15日、5月24日、5月25~26日)あり、当時私が住んでいた家も含めて地域一体、焼夷弾の直撃を受けて焼失したのはこのうちの4月13日でした。ただ、私は母、姉と共にその10日前、静岡県に疎開しておりましたので、一命はとりとめましたが、父祖の代から住み続けていた家は家財ごと跡形もありません。一人残っていた父は、焼夷弾の火力の強さや炎の恐ろしさについて多くを語りませんでしたが、ただ、一人だったから逃げきることができたと、よく言っておりました。
そんな昔のことを思い出させられるウクライナの惨状は同時に、それが他岸の火事ではないことに気づかせてもくれました。
島国日本だって北側の海はロシアと国境を接しておりますし、西には島伝いに行ける半島が、南には大国が控えております。それどころか、すでにこの余波は石油や多くの穀物などを輸入に頼っている日本の日常生活にも顕著に表れて、生活必需品の価格が日ごとに上昇しております。勿論、自然災害の影響や日本経済独自の動向が物価高に拍車をかけている点もありましょうが、文明が進み、日々進化していく地球上の在り方に疑問が生じている現在、そこに住む人間の暮らしも改めて変化せざるを得なくなっているような気がしてならないのです。けれどもその変化を戦争に求めるのは万物の霊長たる人間のすることでないことは、誰もが知っているはずです。
現在ウクライナに投下されているテルミット焼夷弾の温度は2000度を超えるとか。火山の噴火で流れ出る溶岩の温度は900度から1100度と聞きます。夜の闇を飲み込みながら斜面を下る真っ赤なマグマの濁流は地獄絵を思わせますが、その溶岩よりも高い温度=2000度の炎が空から豪雨のように降って来る有様を何にたとえたらよいでしょう。この温度は、ほとんど消火不可能な温度だそうです。
最近『ひとはなぜ戦争をするのか』という本が評判になっていると伺い、遅まきながら私も手に取ってみました。物理学者アルバート・アインシュタインと心理学者ジグムント・フロイトの往復書簡です。国際連盟の国際知的協力機関から、好きな人を選び、今の文明でもっとも大切と思える問題について意見交換せよ、という依頼でアインシュタインは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というテーマでフロイトに充てて手紙を書きました。それを受けたフロイトがアインシュタインに返事を書いたものですが、とても90年前に書いたとは思えない内容です。たった今の世界状況にも通じることが、真摯な姿勢で綴られている二人の天才の手紙にあるのです。
かくいう私は、ロシアのウクライナ侵攻が一日も早く終結を迎えることをひたすら祈るばかりなのですが。