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『書庫を建てる―1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト―』松原隆一郎/著 堀部安嗣/著

2016年5月29日(日)開催!
「阿佐ヶ谷書庫内覧会とトーク」のご案内

古川日出男(小説家)×松原隆一郎(社会経済学者)×堀部安嗣(建築家)
イエ、街、ものがたり

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本連載の第一回をお読みいただけます。書籍化にあたっては大幅に加筆修正してありますが、連載時のまま掲載しています。
  • 01 家の来歴   2012/09/15  読めます!
  • 02 家を継ぐ   2012/10/01
  • 03 実家を売却する   2012/10/15
  • 04 書庫と仏壇の家を探す   2012/11/01
  • 05 阿佐ヶ谷の土地柄   2012/11/15
  • 06 堀部建築との出会い   2012/12/01
  • 07 住み手から見た堀部建築   2012/12/15
  • 08 どんな書庫住宅を望むか   2013/01/01
  • 09 仰天の最終プラン――建築家との攻防   2013/01/15
  • 10 施工会社の奮闘   2013/02/01
  • 11 建ち上がる「書庫と仏壇の家」   2013/02/15
  • 12 書庫の完成   2013/03/01






亡父が残したアルバムから見つけた進水式の写真。昭和13(1938)年頃。中央で番傘を持つ女性が祖母。その右側、女の子といるのが祖母の兄か。


学者が書庫を建てる

 今年の7月末から、東京都杉並区阿佐谷北6丁目の早稲田通り沿いで高円寺と阿佐ヶ谷の中間で新築の家の工事が始まりました。狭小、わずか28.7平方メートルの土地で、設計は堀部安嗣さん、1997年に拙宅をリノベートしてくれ、のちに建築専門誌が一冊を使って特集を組むに至る名建築家です。

 工事中であることを示す看板には、「松原書庫新築工事」とあります。たしかに書庫がメインの家ですし、私(松原)は学者ですから、学者らしい夢を実現しようとしているといえばその通りではあります。学者の多くには、自宅に本を収蔵しきれず専用書庫を持ちたいという願望があるでしょう。けれども私がこの家を建てようと考えるに至るまでには、それに尽きない思いがありました。
 それは「長男が実家から離れて職を持つとき、『家』はどうなるのか」にかかわっています。ここでいう『家』とは物理的な実家を指すとともに、先祖から続く「イエ」も意味しています。墓や仏壇に象徴されるようなイエは、長男が実家から離れてしまったらどうなるのか。多くの長男が共通に抱えるこの問題に、私なりに出した答えが「実家を売って得た資金で家を新築する」というものでした。
 実家を売却するという選択は、多くの方が現実に迫られているものでしょう。しかしそれで得た資金をまるまる投じて家を新築するとなると、決断が必要となります。資金をそのまま流動資産として持っておくことも可能なのですから。なぜそんな結論に至ったのか。ことの経緯を知っていただくために、数回私事におつきあい下さい。それは、私の祖父母の仏壇が堀部安嗣という希代の建築家に出会うまでの物語です。


私の「イエ」の来歴

 私の言う「イエ」つまり松原家は、祖父に始まります。私の祖父・松原頼介(戸籍名。「賴介」は通名か。1897~1988)は山口県山口市鋳銭司の出身、四辻駅近くに生家がありました。何代も続く地主のような家系です。祖父は中学を中退して兄と二人でフィリピンへバナナ農園の開拓へと出かけますが、体がきつくておそらくは大正の初期に帰国、荷車を引いて油を売ったりする商売を始め、結婚し、長男の孜が生まれます。昭和2(1927)年、祖父が30歳の時でした。
 父の出生届が出ている現在の神戸市兵庫区東出町に大正時代いっぱい居着いたものと思われるのですが、私自身今夏に初めてこの地域を訪ねてみて、ハイカラで高級なイメージの神戸とは対照的な寂れた風景に驚かされました。当地は平清盛が修築したとされる大輪田の泊とも言われ、湊川のデルタ地帯に土砂が堆積して出来たとされます。のちに兵庫津となりますが、なにより明治29(1896)年、港湾部に川崎造船所(現・川崎重工業)が設立されたことが大きく、かつては造船の拠点として神戸の発展を担っていました。
 人口は隣の西出町が大正9(1920)年の国勢調査では4459人。平成13(2001)年の神戸市統計では1402人(東出町は847人)ですから、かつては3倍の人口を擁し、狭小家屋と立ち飲み酒屋が密集し工員や船員で溢れる労働者の下町だったと言えます。酒屋の多さは、仕事帰りの日雇いの労働者が飲んで疲れを癒やしたことを示すのでしょう。
ほんの100メートルほど離れた所に1922年生まれの中内功が幼少期を過ごした実家の「サカエ薬局」がありました(現在は「ダイエー発祥の地」と記された金属柱あり)。1902年生まれの推理小説作家の横溝正史と1908年生まれの日本画家の東山魁夷も、上京するまでの大正期を少年として近隣で過ごしています。この町は、成り上がり出て行くことを夢見る若者たちが雌伏する土地柄だったのでしょうか。祖父と中高生の横溝・東山、幼少の中内が路地ですれ違っていたかと思うとゾクゾクします。

 祖父もまたその頃に事業で成功します。この地で船成金が登場し、ほど近い花隈町で散財したのは大正前半ですから、遅れてきた成金だったということかもしれません。そしていったん王子動物園近くの水道筋に転居、さらに昭和7~8年頃には、東灘区魚崎の住吉川沿い、灘校の隣に1000坪の邸宅を構えます。谷崎潤一郎が『細雪』を執筆した際に住んだ(昭和11~18年)「倚松庵」は住吉川の対岸を100メートルほど下ったところにあります。
 この頃には神戸市の納税ランキングで五指に入るまでにのし上がりましたが、それは布の表面をコーティングするという防水加工技術を発明して、冬場の零下30度でも固まらず畳める防水シートを満州鉄道に納入するようになったことによります。魚崎町内の天井川沿いに「松原帆布」と「松原商会」を興し、戦後に関西帆布の工場となり現在は巨大なマンションが建っている場所に紡錘工場、道をはさんだところに二つの裁縫工場を構えました。工場でボイラーを焚き、一時は200名を超える従業員を擁しました。朝鮮や大連に支店を持ち、祖父は自家用飛行機で行き来しました。『細雪』に住吉川の氾濫が描かれた昭和13年の水害で、松原商会は天井川から押し寄せた土砂に埋もれたそうです。


戦争と祖父の船

 祖父は典型的な起業家だったのでしょう。順風満帆でしたが、戦争が行く手を阻みます。繊維が配給で入手困難になり、松原商会は昭和14年には日出紡織に売却され、さらに国策で当時大和紡績株式会社に統合されます。
 ことの経緯は不明ですが、昭和10年には祖父が機帆船を取得しています。さらに13年に祖父、祖母・松原菊枝(1900~82)と兄の石堂軍治が4隻の機帆船の所有者となっています。さらに祖父は翌14~5年には3隻をみずから建造します。造船所は姫路の御津町(みつちょう・現たつの市御津町)の浜で、広大な土地にあったといいます。揖保郡は祖母の出身地なので、その関係かもしれません。木造の貨物船で、これで貿易や商売を行ったようです。
 しかし戦争が激しくなると日本は軍艦だけでは戦えなくなり、民間の貨物船も徴用し始めます。政府発表では官民一般汽船が3575隻、機帆船2070隻、漁船1595隻の計7240隻が徴用されていますが、船の製造能力も乏しくなると、軍備もほどこさない木造船がそのまま軍用に使われます。航行中に軍艦とすれ違うとその場で徴用、商用の航行を中断させて物資や兵隊を運ばせたりしました。しかし大半が米軍の魚雷によって撃沈され、商用の航行に行ったはずの船員が帰らないということも多かったようです。祖父の貨物船もその例にもれず、次々に徴用されてしまいます。
 商船の徴用は公式ではなく、そのうえ軍にかんする記録は多くがマル秘で残っていません。しかも船員の死亡率が四割を超える異様な高さであるのにその大半が遺骨も帰らなかったということで、いくつかの団体が熱心に情報を集めています。
 ネットに載っている「兵庫県戦時船舶と徴用船・戦没船名簿」という資料によれば、第五喜久丸182t、第七号喜久丸184t、十一号喜久丸184t、第十二号喜久丸213t、喜福丸49tの5隻の所有者が松原賴介、「戦時日本船名録」では、第六喜久丸184tの所有者が松原菊枝、第一喜久丸141t・第弐喜久丸141tの所有者が石堂軍治となっています。祖母の戸籍名は「きくゑ」です。「喜久」とは祖母の名から「きく」を取ったのでしょう。
第七号はフィリピンのセブ島で19年9月20日に船員2名とともに戦没。第十二号は海軍第8艦隊に正式徴用(横須賀鎮守府配属)、20年の9月には解用されて26年に抹消されています。小さな喜福丸以外はすべて徴用され沈没したようです。「わが国商船隊は太平洋を墓場に壊滅した」(日本殉職船員顕彰会)とされますから、そうした運命をたどったのでしょう。喜福丸だけがとくに小さかったせいか、戦後まで生き延びたようです。

 祖父の人生について私はこれまで具体的なイメージを持たなかったのですが、年齢を計算してみて、おおよその様子が分かりました。祖父は中学中退でフィリピン経由で神戸に来て29歳で結婚、30歳頃に成功して王子に邸宅を構え、さらに30代半ばで防水シートで成功、魚崎の大邸宅に引っ越します。しかし42歳で松原商会を売却、造船と貿易に転じますが、造るはじから船は徴用されます。48歳で敗戦を迎え、どさくさに紛れて造船所の広大な土地も信頼していたはずの人の手に渡ってしまいます。息子である父の孜が18歳になったばかりで徴兵されずにすみ、小さな喜福丸とともに残りました。


船上の祖父

祖父母と父。昭和5(1930)年頃


二度目の起業

 それでも祖父は不屈の闘志を持っていたらしく、隣町の青木の浜辺りで醤油や塩・瓦を作り、一隻だけ残った船で九州から北海道まで売りさばき、帰りに石炭を買い集めて復興景気で再び儲けます。1948年には住まいも青木の浜に移しますが、翌年頃に船が大阪湾で沈没します。ようやくエンジンだけを引き上げ、これを解体し元手として、敷地内に1952年、「太陽製鉄」を創業します。これは碁友達であった川崎製鉄の名社長・西山弥太郎の勧めによるもので、川鉄からは鋼板を切った「耳」(鉄屑)をもらい受けたそうです。当初は困窮したようですが、折から勃発した朝鮮戦争で特需の波に乗ります。
 祖父が55歳の時のことでした。この年齢に気づいて、私は衝撃を受けました。55歳といえば、現在の私と同じ歳なのです。私は実家を売却した金を手元においておけば、老後の蓄えとなるかもしれません。しかし祖父はなんと私の年齢からもう一度、大きな仕事をするのです。「隆ちゃんも、仕事場を作ってこれからしっかり仕事せんとな」、写真の中の祖父は、そう私を励ましているのかもしれません。
 そして4年後の1956年に会社は「大和伸鉄」と改名され、私が生まれて、3歳まで事務所の二階で暮らします。業績は日本経済の高度成長とともに右肩上がりに伸び、60年に製鉄所は「大和電機製鋼株式会社」と改称、尼崎に会社を移転させます。
 私の記憶する祖父の口癖は「隆一郎はわしのご自慢じゃ」でしたが、私に面と向かってもそう言うのです。そして将来は会社を継がせようと、三ヶ月に一度は私を尼崎の会社へ連れて行き、ずらりと並んだ従業員の前を歩かせたり、ヘルメットをかぶせて、工場の視察に行ったりしました。赤々と火を噴く電気炉からどろどろに溶けた鉄が勢いよく溢れ出て、次第に鉄筋の形になっていきます。工場建物にはその上をまたぐ橋や階段があり、小柄な祖父が駆けるようにその上を渡っていくと、灼熱と轟音の中で気づいた工員さんたちが仰ぎ見つつ「社長!」と脱帽して挨拶するのです。子ども心にも、それは頼もしく映りました。しかしいつか自分もこうして巡回するのかと思うと、運命に自分が縛られているような気がしました。私は、「将来何になるのか」と聞かれて、口ごもるしかない不自然な子どもでもあったのです。


尼崎工場電気炉

大和電機製鋼尼崎工場


オイルショックによる自主経営断念

 会社はどんどん成長し、従業員も216名を数えるほどになって、さらに兵庫区に移転、祖父は青木の大和伸鉄跡地に再び1000坪の日本家屋を建てます。大きな池があり野鳥が飛来し、自動車で門から玄関まで入るような家でした。この頃が、「イエ」としての松原家の絶頂期でした。73年に祖父は会長となり父が社長となりますが、私が製鉄会社を継ぐべく冶金工学科を志望して東京大学に入学した翌年の76年、オイルショック後の不況から債務の超過が限界まで膨らみ、祖父は自主独立経営を断念して川崎製鉄に経営支援を要請します。祖父は79歳になっていました。青木の邸宅も明け渡して、父は会社に残ったものの代わりの社長を川鉄から迎えることとなりました。私がいまなお胸の疼きを覚える松原家の「斜陽」は、この青木の邸宅を祖父が手放した件に集約されます。


祖父の遺したもの

 祖父は会社を手放してから10年ほどで1988年に亡くなりますが、私の顔を見るたびに「二回大きな事業をやって、わしの人生は面白かったのう」と言っていました。そしてもう一言付け加えたのです。「仏壇は、隆ちゃんまででええから守っといてくれるか」と。墓(住吉川上流に位置する住吉霊園)と仏壇は82年に祖母が亡くなった際に買っており、私にはそのお守りをして欲しいというのです。大和電機製鋼はのちにダイワスチール株式会社となり、2012年4月からはJFE条鋼へ統合されたそうです。私の代となれば松原家には何のかかわりもない会社です。起業家としての松原頼介の「夢の遺構」は、仏壇と墓だけとなったのでした。


取材協力:六條進、山本竹治、前川俊治、光本酒店(東出町)
資料提供:「戦没した船と海員の資料館」「戦没船を記録する会」
資料:『ダイワスチール40周年記念誌』1993