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『ヴィヨンの妻』で
まずは一献、また一献
手始めに、短編集『ヴィヨンの妻』で口切りといこう。短編集って、幾種類ものお酒を、利き酒みたいに少しずつ飲み比べられるよさがあるよね。上手にカンを働かせて、美味しそうな話から口をつけたらいい。
おすすめは『トカトントン』。風変わりなタイトルのついたこの作品は、「拝啓」で始まる手紙スタイルで仕立てられている。中身は、モロ自分の体験の痛切な告白。これぞ、太宰の「肉声主義」と呼んでおこう。
人生が良くなりそうな大切な時に、自分の耳もとで「トカトントン」というふざけた音がし、シラケてしまって幸福になれない、という「私」。あなたにも似たようなことはない? たとえば入試の時に、ふと演歌のメロディーがくり返し頭の中で鳴り続けてた、とか、デートの最中に、これは言っちゃいけないという言葉が浮かんで離れなかった、とか。そう、読者を奇妙に共感させてしまうのが、太宰のやり口なのです。
一方『父』『家庭の幸福』では、人間の求める宝物や幸福は「家庭生活」の中にはない、などというミもフタもないことを言ってるぞ。それでもなぜか心に引っかかってくる。彼の小説の中から押し寄せてくる、読者一人一人の耳もとに直接語りかけてくるような「魅力的な声」や「衝撃的な音」をしっかり感じてほしい。
『人間失格』で
イッキ、イッキ、イッキ
つづいて太宰の残した最高の問題作、『人間失格』を一気にあおってみよう。この作品の魔力に取り憑かれて「ダザイ病」にかかる若者は昔から多いのだ。「はしかのようなものだ」と言う、口の悪い人もいるくらい。
作中に、幸福も不幸も感じない、つまり人間以下の存在となった二十七歳の主人公「自分」とその悪友とが、〈罪〉という言葉の反対語は何かを論じ合う名場面がある。このネタで、昔の大学生は青臭いけれども大まじめな人生論をぶって、友だちと大げんかをしたものです。さて、あなたは〈罪〉の反対語は、何だと思いますか?
この作品では、手記を書いた「自分」の一人語りと、その手記を最初に読まされる「私」の一人称の文章が、立て続けに読者の耳にぶつかってくる。あたかもほんとうにあった出来事のように。音の魔術、とでも言いあらわそうか。フィクションを真実だと思わせるだけの話術を、ダザイは開発し完成させたのだ。
音、といえば、この人の名前「太宰治」も、漢字の見た目よりも、「ダザイオサム」という発音の方になぜか魅力を感じる。ここからは「ダザイ」と親しく呼ぶことにしよう。
女心を書き綴った『斜陽』で
ホロ酔いかげん
日記、手紙、遺書。ベストセラーとなった『斜陽』にも、たくさんの「自分語り」が挿入されている。主人公は「かず子」という二十九歳の女性。いや、ちょっと待った。ダザイって、男だったはず。それが、未婚の母になる決心をした女性の心と言葉で書いているのだ! どうやらダザイは、うら若い女性にも変身して、「私は」と裏声で会話することもできたようだ。女性(ホステス)の切ない気持ちを歌った「昔の名前で出ています」が、小林旭というマッチョで高音の男性歌手によって歌い上げられてるのに似ているね。
このような変身は、ダザイの最も得意とするところ。中でも、ケッサクは『女生徒』(『走れメロス』に収録)。なんてったって三十のオッサンが、うら若い乙女の、素直だかひねくれているのだかわからない心理を、必死に書いているんだから。
まあ『源氏物語』だって、女性の紫式部が、光源氏という男性の恋愛心理を分析したものだから、作家の「変身願望」はいつの時代にもあるのでしょう。
『斜陽』は戦争前に裕福だった人々の戦後の没落を描いたものだが、美しく滅びる姿への感動がそこはかとなく伝わってくる。テーマは重苦しいけど、軽い語り口で一気に最後まで読めてしまう。読み終えると、あかあかとした太陽がおだやかに沈んでゆく暖かさや輝きが、まぶたの裏側に残っていることだろう。
「斜陽産業」というように、一般的には「暗い」「みじめ」という意味で使われることが多い「斜陽」という言葉だが、ダザイにとっては、いかにも日本的な、愛すべき美意識を表わしていたのではないだろうか。
『走れメロス』で、
たまには泣き上戸になる
短編集『走れメロス』も、面白そうな話から読むとよい。『女生徒』は既に紹介した。『駈込み訴え』にも、驚かされる。代官に、誰かさんが必死に訴えている。何でも、悪いヤツがいるから、つかまえてほしいそうだ。約二十ページを、ほとんど改行もなく、一気にしゃべり散らしている男の名前は、ユダ! つまり、この「一人称の告発」は、キリストを売る歴史的悪事の再現劇だったのだ。「はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」という最後の一文まで、殺人事件の犯人が犯罪を決意した動機を自白するミステリー小説を読むかのようなスリルがある。
オススメは、何と言っても『走れメロス』。何度読み返しても、話がわかっていても、この底なしに人間の心の美しさを賛美した短編には泣かされる。
意外なことに、「メロスは激怒した」と、三人称の正攻法の文体で始まる。けれども、盛り上がってくるのは、「私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ」とか、「私は信頼されている」などの一人称の語りの部分から。いつの間にか、読者はメロスと一緒に走っている。そして、いつの間にか、泣いている。
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