こざわたまこ『負け逃げ』

発売前の短篇 全文公開!「美しく、輝く」
[書評]窪美澄「けもの道を全力で走り出す」
目次

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Ⅰ 僕の災い
Ⅱ 美しく、輝く
Ⅲ 蠅
Ⅳ 兄帰らず
Ⅴ けもの道
Ⅵ ふるさとの春はいつも少し遅い

 美輝ちゃんの漫画が出版社に届くことはない。もちろん今後、何かの賞を取ることもない。私は美輝ちゃんに、何も言わなかった。言えるはずがなかった。次の日、きっとお礼でも言おうとしていたんだろう美輝ちゃんを、私は一日中無視した。戸惑う美輝ちゃんを、次の日も、その次の日も避け続けた。

 そういう日々が何日か続いて、美輝ちゃんは次第に、私に声を掛けようとはしなくなった。やがてクラスで二度目の席替えが行われ、私と美輝ちゃんは離れ離れの席になった。それが本来あるべき姿だとでもいうように、ごくごく自然に。

 それ以降美輝ちゃんが、あの日私に託した漫画について、何かを尋ねてくることはなかった。ほどなくして、美輝ちゃんは学校で漫画を描くことをやめた。私はその理由も、本当にもう漫画をやめてしまったのかも、何も聞くことはできなかった。

 美輝ちゃんとの交流が途絶えて初めて、私はゆきりんとハラエリに謝罪した。あの時書いた手紙を、読み返すことなく手渡した。するとその日の放課後、二人に呼び出された。身構える私に、ゆきりんは口を開いた。

「ごめんね」

 声には涙が滲んでいて、ゆきりんはうつむいたまま、顔を上げようとはしなかった。面食らった私がハラエリを見ると、ハラエリはゆきりんの肩をぽんぽんとたたいていた。そして私をまっすぐ見て、たった一言、
「本当にごめん」
 と言った。その目はなんだか大人びていて、肩を抱かれて泣きじゃくるゆきりんが、赤ちゃんみたいに見えた。

 その日の帰り道、みんなで水無橋を渡った。私は初めて、漫画家になりたいという自分の夢を打ち明けた。二人は私の告白に素直に驚き、そして、すごいねと言って応援してくれた。もう、終わってるとは言われなかった。

 それに続いてゆきりんが恥ずかしそうに、私もほんとはモデルになりたいんだ、と言った。今、雑誌の読者モデルに応募しようかと思ってる。ゆきりんの顔は真っ赤で、どう答えていいか言葉につまった私をよそに、ハラエリがおずおずと、でも真剣な目をして、「それはちょっと無理があるんじゃ」と突っ込んだ。

 思いがけない奇襲に、私が口を開けていると、ゆきりんは傷ついた顔をしつつも、はいはい、わかってますよ、と口を尖らせた。するとハラエリが、同じかわいいでもモデルになれる顔となれない顔があって、とフォローとも追い討ちともつかないような言葉で慰め出したので、そのやり取りに思わず笑ってしまった。そして、肩を落とすゆきりんに、まずは前髪伸ばしてみれば、とアドバイスした。



 水無橋は今日もそ知らぬ顔をして、山と町とを繋いでいる。私はそれを、ゆきりんとハラエリと三人で渡る。行きも帰りも。漫画しりとりはもうしない。その代わり、なんてことのないおしゃべりをする。午後の授業がたるかったって話。この前返ってきた中間試験の古典の成績が最悪だったって話。ヒデジがまじでむかつくって話。ゆきりんに好きな人がいるって話。

 今日は球技大会を間近に控え、遅くまで学校に残ってバレーの練習をした。二人は、絶対優勝、とか言って意気込んでる。でも多分、このクラスに美輝ちゃんがいる限り、それは無理だ。美輝ちゃんは練習が始まって以来、一度もまともにボールを繋げることができていない。クラスのみんなからは、顰蹙(ひんしゅく)を買っている。私はそれを横目で見ながら、でもどうすることもできない。

 夜の冷気にまじって、夏の予感のする風が鼻先をかすめた。でも私は、それは口には出さず、そっと自分の胸の中に留めておく。そして、橋の向こうに広がる風景に目をやった。そこには、空にぽっかり浮かんだまるい月と、夜の川があった。川は白い月の光に照らされながら、ただ静かに流れている。それが今も私にとって特別なものなのかどうかは、わからない。でも、

「やっぱり世界地図みたい」

 二人が会話を止めて、え、と聞き返した。私はもう一度、夜の川って、世界地図みたいに見えるよね、と言った。するとゆきりんとハラエリはそろって顔を見合わせ、ふき出し、何言ってんの、全然見えないよと返した。やっぱ真理子って変わってるね。ほら、漫画描く人は違うんじゃん? 感性が。ねえ、絶対見せてよ出来たら。ほんとに楽しみにしてんだから。二人は無邪気に笑って、またおしゃべりに戻っていった。

 想像してみる。美輝ちゃんなら、今なんて言っただろう。どんな顔をしただろう。もし私が明日、美輝ちゃんに話しかけたら。そうだねと、私もそう思うと、言ってくれるだろうか。今さら都合がいいと、怒るだろうか。困ったように、笑うだろうか。私はそれを知らない。だから頭に思い浮かべて、想像してみる。つたなくひ弱で、あまりに凡庸な私の想像力は、それでも必死にこの物語をつむいでいく。

 私が今描いているのは、私と美輝ちゃんの話だ。それは、とある親友の女の子達の話でもあったし、ちょっぴりえっちなレズビアンの話でもあったし、ただ憎しみ合う敵同士の話でもあった。でもどれも、紙の上の私達は思い描くほどには美しく動いてくれなくて、私は毎晩私に失望する。

 それでも描いては消し、描いては消しを繰り返し、枠線を引き、ストーリーを考え、ふきだしをつけて台詞を入れ、瞳の中にきらきら光るお星様を描き込んで、終わることがなくても、最後まで描けなくても、これから何度描き直すことになろうとも、それでも今、私は漫画を描いている。そうして、私の中に広がる闇にひとつずつ、小さな明かりを灯す。

 今日も、明日も、あさっても。

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