こざわたまこ『負け逃げ』

発売前の短篇 全文公開!「美しく、輝く」
[書評]窪美澄「けもの道を全力で走り出す」
目次

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Ⅰ 僕の災い
Ⅱ 美しく、輝く
Ⅲ 蠅
Ⅳ 兄帰らず
Ⅴ けもの道
Ⅵ ふるさとの春はいつも少し遅い

 席替えがあった日、日直を終えてクラスに戻ろうとすると、時計の針はすでに六時を回っていた。ゆきりんもハラエリも、用事があるからと言ってさっさと帰ってしまった。沈みかけた夕陽が教室をオレンジ色に染め上げ、校庭からは運動部の掛け声が聞こえてくる。そこに、噛り付くようにして机に向かう一人の影があった。私の隣の席だ。

 ドアを開けると、美輝ちゃんは私に気づいて、机の上に広げていたものをあわててしまいだした。私は、お疲れ、と声を掛けてその場を去ろうとした。けど、美輝ちゃんはさらに動揺し、あわあわと立ち上がって、その拍子に自分の筆箱やらノートやらを床にぶちまけてしまった。

 目盛りが剥げかけたプラスチックの定規や、黒ずんだ小さな消しゴム、何本もの色ペンが音を立てて落下していく中、時間差で何枚かの白い紙が静かに床に着地した。そこには枠線と、それをいくつかの四角に区切る何本かの棒線と、その四角の中に人物や背景、そしてその人物達の口元から飛び出すふきだしが描かれていた。すぐにそれが、漫画の下描きだと気づいた。私が毎夜、自分の部屋の机の上で見ている光景と同じだったから。

「漫画家になりたいの?」

 思わず、そう聞いていた。美輝ちゃんは、びくりと肩を震わせ、Xデーの朝を迎えた死刑囚みたいな顔をした。あの、あの、と口をぱくぱく動かしている。しばらくして、美輝ちゃんはあきらめたようにがっくりとうなだれ、小さくうなずいた。美輝ちゃんの体は、そのまましぼんで消えてしまいそうだった。

「私も」

 そう言うと、それからワンテンポもツーテンポも置いてから、美輝ちゃんが、えっ? と聞き返してきた。私の発した言葉が、宇宙語か何かだったみたいな感じで。その反応を見たら、急に恥ずかしくなった。そして、そう感じさせた美輝ちゃんをうとましく思った。だからそっぽを向いて、ぶっきらぼうにもう一度言った。
 私も、漫画描いてる。

 そらした視線の先で、私達を照らしていた夕陽が山に隠れ、教室には夜が静かににじり寄ろうとしていた。日が暮れた教室で暗がりに浮かんだはずの美輝ちゃんの表情を、私は見ないふりをした。



 次の日、授業が終わると、昨日はごめんね先帰っちゃって、とゆきりんが両手を合わせてきた。その後ろでハラエリも、もじもじしながらこちらを見ている。ゆきりんが甘えるように私の袖を掴み、「ねえ、新しくできたカラオケ屋行こうよ、行ったことないじゃん」と誘ってきた。どうしよっかな、と答えを濁すと、ゆきりんは、「何怒ってんの?」とふざけて私の肩を叩いた。思いのほか力が強くて、ちょっと痛い。それに気づいているのかいないのか、ゆきりんは「カラオケ屋でなんかおごるから許して、真理子様」と大げさに肩を縮こまらせてみせた。

 ハラエリが取りなすように、「あそこ食べ物おいしいからいいよね」と言って、ゆきりんが、馬鹿、とハラエリをにらんだ。きまずい沈黙が流れて、私が、二人で行ったんだ、と言うと、ゆきりんは、だってさあ、とハラエリに目配せした。ほら、あそこって夜になると、ちょっと高くなっちゃうから。ってか、それ教えてくれたのハラエリじゃん。

 ハラエリは、ひきつったような笑みを浮かべて、「そうそうごめんね」と調子を合わせた。だからさ真理子、今日は一緒に行こうよ。あ、私あの子のデビュー曲もう一回歌いたい。えー、ゆきりん充分うまかったし。

 ゆきりんとハラエリは小中と同じ学校で、親同士も仲がいい。高校から付き合い始めた私とは、別の絆で結ばれてる。小さな村だから、その中に住む人間はどれだけ小さなコミュニティでもよそ者を作るのが得意だ。

 たぶん二人は、私の知らない所で秘密をいっぱい持ってる。けど私はその秘密には気づかないふりをして、二人の間に紛れ込む。私達の友情は、そういう風にして成り立ってきた。だから私は今回も、しょうがない、とため息を飲み込んで、ちょっと怒ったみたいな顔をして、じゃあ甘いものでもおごりたまえ、なんておどけてみせなきゃいけないのだ。

 二人に、うん、と頷きかけた時、美輝ちゃんと目が合った。美輝ちゃんはすぐに目をそらして、でも手にはノートを持ってこちらを窺っている。それを見たら思わず、やっぱりまた今度にする、と言っていた。

 二人はそれからしばらく粘ってたけど、私はちょっと図書館に用が、なんてみえみえの嘘をついてそれを断った。でも、先に下手な嘘をついたのはそっちだから、これでおあいこだ。二人が教室を去ってから、美輝ちゃんに、漫画見せて、と声をかけた。美輝ちゃんもわかっていたのか、私が話しかけても昨日ほどは驚いたりせず、はにかみながらも頷いた。

 教室から人がいなくなるのを待って、一つの机を二人で挟んだ。美輝ちゃんのノートを開く。罫線入りのキャンパスノートには、何枚にもわたって漫画が描かれていた。美輝ちゃんは、お祈りでもするみたいに手を合わせて、不安そうにこちらを見ている。私は一枚ずつ、ノートをめくった。校舎からは少しずつ人が消えて、読み終える頃には、学校に残っている生徒は私達くらいになっていた。

 美輝ちゃんの描いた漫画は、お世辞にも上手と言えるような出来じゃなかった。絵は昭和のギャグ漫画みたいなテイストで、今の流行からは完全に取り残されていたし、ところどころパースが狂っている。紙もノートかコピー用紙ばかりで、専用の原稿用紙は使ったことがないらしい。インクやスクリーントーンは言わずもがなで、枠線も人物も背景も、全て鉛筆の手描きだった。

 何より、美輝ちゃんが描く物語の主人公のモデルは、誰がどう見ても美輝ちゃん自身だった。友達がいなくて、勉強も運動も苦手な冴えない女の子が、急にどこかの国の王子様に見初められたり、あるいは魔法少女になってみたり、スポーツで才能を開花させたりする妄想サクセスストーリー。正直目も当てられない。四角いコマの中で笑ったり泣いたりする「輝かしい」美輝ちゃんの姿は、私の目にはとてもグロテスクなものに映った。

 ノートを閉じると、少しの沈黙の後美輝ちゃんが、どうだった、と聞いてきた。全然おもしろくなかったよ、とは言えなかった。ノートを返した時触れた美輝ちゃんの手は、微かに震えていた。

 漫画は美輝ちゃんにとって、誰にも踏み荒らされることのない自分だけの桃源郷だ。漫画の中でだけは、叶わない夢を見ることができる。美輝ちゃんじゃないような女の子になれる。それも、最初から特別な女の子になるわけじゃない。美輝ちゃんのような女の子が、急に素敵な男の子に告白されたり、実は誰にも負けない才能を持っていたり、世界を救うヒーローに変身することができる。だから美輝ちゃんは、漫画を描いている。

 私は美輝ちゃんのノートをもう一度めくって、ここ、と指さした。このページ、正面の顔ばっかりだから、横向きとか俯瞰とか、あと背景とかも入れた方がいいよ。苦し紛れのアドバイスだったのに、美輝ちゃんはすぐに身を乗り出して、うん、と頷いた。

 私は続けて、スクリーントーンって知ってる? と聞いてみた。美輝ちゃんが首を振る。空とか影とかのシールみたいなやつで、プロの漫画家はそれ使ってるんだよ。後、ネームも。ちゃんと下描きする前の絵コンテみたいなやつ、描いた方がいいと思う。全部、昨日本屋で買った『君も今すぐプロになれる! ~初心者でもわかる漫画の描き方~』の受け売りだった。それでも美輝ちゃんは、神様でも見るみたいな目で私を見つめていた。

 一夜漬けの知識のくせに、私はいっぱしの漫画編集者にでもなったつもりで、それらしいことをしゃべりまくった。美輝ちゃんは、それを事細かに、逐一自分のメモ帳に書き留めていた。ひたむきなその姿にちょっとだけ罪悪感を覚えて、私は、明日は私が描いた漫画持ってくるね、と約束した。美輝ちゃんはすぐに、うん、うれしい、と返してくれた。蛍光灯の下、美輝ちゃんの顔に浮かんだ不器用な笑みを、今度はきちんと見ることができた。

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