こざわたまこ『負け逃げ』

発売前の短篇 全文公開!「美しく、輝く」
[書評]窪美澄「けもの道を全力で走り出す」
目次

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Ⅰ 僕の災い
Ⅱ 美しく、輝く
Ⅲ 蠅
Ⅳ 兄帰らず
Ⅴ けもの道
Ⅵ ふるさとの春はいつも少し遅い

 私はその夜の帰り道、水無橋を美輝ちゃんと渡った。橋を歩いてしばらく、私と美輝ちゃんの間に会話はなかった。空に浮かぶ星の瞬きの方が、よっぽどおしゃべりだ。私は横目でちらりと美輝ちゃんの方を見たけど、美輝ちゃんは自分の足元を見つめたまま、何かを話す様子はない。沈黙に耐えかねて、私は口を開いた。

「なんで漫画を描き始めたの?」
 美輝ちゃんは、いつもの通り長い時間をかけて考え込んだ後、ようやく小さな声で、
「昔から」
 と答えた。昔から、ってなんだよ、答えになってねえよと突っ込みかけたところで、美輝ちゃんが珍しく言葉を続けた。

 昔から、私の家にはいっぱい漫画があって。なんでかっていうと、私のお父さんは昔漫画家で、だからなのね。名前? 言っても知らないと思う。雑誌に載ったのも片手で数えられるくらいらしいから。だから、本当は漫画家とも言えないの。それで、うちはお母さんがいなくて。っていうのはお父さんが売れもしない漫画ばっかり描いてるのに愛想つかして出ていっちゃったからなんだけど。お母さんが出て行く前に、漫画か私かどちらか選んでちょうだいってそう言われて、漫画を選んだからお母さんはいなくなって、それでお父さんはやっと漫画家をやめて普通に働き出したんだけど。っていうかそれじゃ遅いんだけど。だからうちでは漫画がお母さんの代わりなのね。そういうふうに言われて育ったから、悲しいことがあった日も、うれしいことがあった日も、私は漫画を読んでたの。でも漫画は人間じゃないから、私の話は聞いてくれないんだよね。で、どうしたらいいんだろうなって考えて、漫画を描くことにしたの。漫画でなら、今日あったことも、言いたいことも、言えるから。それで私、漫画を描き始めたの。

 美輝ちゃんは、そういうことをつっかえつっかえ、けど途切らせることなく、最後まで話し続けた。美輝ちゃんが話す間に、私達は橋の真ん中まで来ていた。橋の下には、今日も見たことのない地図が広がっている。地上を舐めるように吹いた風が、水面を揺らす。川に起こったさざ波が、黒光りする龍の鱗みたいに見えた。

 私がしばらくそこで立ち止まっていたら、美輝ちゃんがぼそりと、私、夜にこの橋の上から見る川が、この村の景色の中でいちばん好き、と言った。そう言ってくれた。なのに、私はなぜか、地図のことを口には出せなかった。

 背中を吹き抜ける風は、まだ少しうすら寒い。真っ黒な川を、橋に並ぶ電灯がチカチカと照らす。朝、テレビのアナウンサーは満開の桜の映像を見ながら春の訪れを喜んでいた。けど、この村の桜が花開くのはもう少し先のことになりそうだ。

 私は美輝ちゃんに、どんな漫画が好きなの、と聞いてみた。すると美輝ちゃんは、日本の兄弟とか、いちご物語とか、リバーズ・エッジとか、と答えた。それからギャグみたいな感じで、あ、でもジョジョとかも読むよ、と付け足した。美輝ちゃんがすらすらと口にした漫画の中で、私が読んだことがあるのは、最後のジョジョってやつだけだった。でもその漫画は、絵が気持ち悪いから、って理由で一巻で投げ出してしまっていたので、ああ、そういう系なんだ、とだけ答えた。

 また沈黙が訪れて、私は困って投げやりに、今言った漫画しりとりになってる、と言ってみた。美輝ちゃんは最初きょとんとした顔をしていたけど、しばらくして、あっ、と声を上げた。ニホンノキョウダイ、イチゴモノガタリ、リバーズ・エッジ、ジョジョ。ほんとだ。しかもジョジョの奇妙な冒険、だから「ん」で終わってるね。ほんとだ、すごい。

 美輝ちゃんはしきりに「すごい」を繰り返し、そして笑った。本当にうれしそうに。笑う美輝ちゃんの口元に、きらりと光る銀色の矯正器具が見え隠れした。そして今度は私に、真理子ちゃんはどんな漫画が好き? と聞いてきた。

 私は、ワンピース、と答えた。けど、美輝ちゃんの後に言ったお気に入りの漫画は、なんでか不正解だったみたいな気持ちになった。美輝ちゃんは、私も好き、と答えてくれたけど、それ以上会話は弾まなかった。

 私は取り繕うように、やっぱ王道をなめちゃいけないと思うんだよね、マイナーなやつがえらいってわけじゃないと思うし、と、いらぬことをしゃべってしまった。それを聞いた美輝ちゃんは、相槌を打つだけで、反論したりはしなかった。

 それから私達は、漫画のタイトルしばりでしりとりをしながら橋を渡り切った。しりとりは、私の番で途切れて負けてしまった。私が負けを宣言すると、美輝ちゃんはとても申し訳なさそうに、でもうれしそうに、勝っちゃった、とピースした。私が今まで見た中で、いちばん下手なピースサインだった。

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