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 アメリカで『象の消滅』が出版された頃
村上春樹

 この『象の消滅』という本は、アメリカのクノップフ社から1993年に発行された僕の短編小説集“The Elephant Vanishes”の日本語版である。ラインナップも、収録順序も英語版をそのまま踏襲している。もちろん英語から日本語に翻訳されているわけではなく、原則として僕が日本語で書いたかたちのまま――つまりオリジナル・テキストのまま――収録されている(例外がいくつかあるが、それについてはあとで具体的に述べることにする)。僕の短編小説群はこれまでのところ外国では、原則的にアジアの一部地域とロシアを別にして、この“The Elephant Vanishes”という共通パッケージングで出版されている。そうしないと短編小説の場合、個々の作品の管理がとても面倒なことになってしまうからだ。また英国の劇作家サイモン・マックバーニーによって、この中の作品をいくつか組み合わせたかたちで舞台化され(タイトルは“The Elephant Vanishes”)、日本人の役者によって世界各地で公演され、高く評価されることになった。そういういくつかの点で、僕の作家としての履歴にとって、この作品集=セレクションの持つ意味は決して小さなものではない。
 良い機会なので、この英語版『象の消滅』という短編集が生まれた経緯を明らかにしておきたいと思う。

 1990年の夏に、僕の短編小説『TVピープル』が、アルフレッド・バーンバウムの訳で雑誌「ニューヨーカー」(9月10日号)に掲載されると決まったところから話は始まる。今からもう十五年も前のことになるが、僕はその知らせを聞いて、ずいぶんびっくりしてしまった。というのは、僕にとって「ニューヨーカー」という雑誌は、長いあいだにわたって、ほとんど伝説か神話に近い「聖域」に属するものであったからだ。そんなところに僕の書いた小説が載る……と思うと、そんなに涼しい顔はしていられない。僕の前に「ニューヨーカー」に小説が掲載された日本人作家は一人しかいなくて、それもずいぶん昔のことである。どういう人なのか詳細は不明だが、おそらく名前からしてアメリカ在住の日系の作家ではないか、ということだった。僕のあとには1993年に大江健三郎氏、2004年に小川洋子さんの短編作品が掲載された。これからもその数はたぶん増えていくことだろう。でもとりあえず翻訳されたものに限っていえば、僕が最初の「ニューヨーカーに載った日本人作家」ということになる。ほかの人にとってはそんなのは大したことではないかもしれないけれど、僕にとっては、おおげさに言えば、「月面を歩く」のと同じくらいすごいことだった。どんな文学賞をもらうよりも嬉しかった――と言えば、その嬉しさの一端は理解していただけるかもしれない。
 当たり前のことだが、「ニューヨーカー」に載る小説みんながみんな傑作というわけではない。くせのある人たちが編集している、くせのある雑誌だから、くせのある作品が選ばれるというふしもある。しかし僕の敬愛する多くのアメリカ作家たちは、この雑誌を根城として、輝かしいキャリアを積んできたのだ。トルーマン・カポーティ、J・D・サリンジャー、アーウィン・ショー、ジョン・アップダイク、レイモンド・カーヴァー、ジョン・チーヴァー……数え上げればそれこそきりがないが、みんな「ニューヨーカー」という雑誌を抜きにしては語ることのできない偉大な作家たちだ。「ニューヨーカー」に作品が掲載されることを彼らは誇りにし、それをひとつの励みにして作品を書いてきたのである。逆の言い方をすれば「ニューヨーカー」という雑誌が、長い時間をかけて、アメリカにおける短編小説のひとつのかたちを――それももっとも洗練されたかたちを――作り上げてきたのだということになる。
 何年か前にニューヨークである若いユダヤ系の作家と会って、あれこれ世間話をしていて、最初に自分の作品が「ニューヨーカー」に載ったときの話になった。「あの雑誌に採用されるとわかったとき、僕はほんとうに大声で叫んで街を走り回りたくなったね」と彼は言った。彼の母親はその号を百冊くらい買って、親戚や友人知人に配ったということだ。「なにしろ、ほら、ジューイッシュ・マザーだからさ」と彼は言って楽しそうに笑った。そうか、アメリカ人の作家にとっても、「ニューヨーカー」に自分の作品が載るというのはそれくらい嬉しいものなんだなと、僕は思った。気持ちはよくわかる。二人でヴィレッジの小さなカフェでコーヒーを飲みながら、そんな思い出話を交換していた。
(中略)
『TVピープル』は読者の評判も上々であったようで、「ニューヨーカー」は僕を気に入ってくれたらしく、そのあとも次々に作品を採用してくれた。『ねじまき鳥と火曜日の女たち』が採用された二作目の短編小説である(90年11月26日号)。それから『象の消滅』(91年11月18日号)、『眠り』(92年3月30日号)、『納屋を焼く』(92年11月2日号)と続く。翻訳者は最初のうちがアルフレッド・バーンバウムで、それからジェイ・ルービンとフィリップ・ガブリエルが登場してきた。このように優秀な翻訳者に恵まれたことも、僕の幸運のひとつであったと思う。
 93年の初めに「ニューヨーカー」から、うちと優先契約を結んでくれないかという申し出があった。つまり作品が書き上がったら、まず最初に「ニューヨーカー」に持っていかなくてはならない。それが首尾よく採用になったら、そのまま「ニューヨーカー」に掲載される。もし不幸にして採用にならなかったら、そのときはどこの雑誌に持っていってもかまわない、というきわめてシンプルな契約である。「ニューヨーカー」の稿料は、ほかのアメリカの雑誌に比べてもかなり高額だから、僕としては「ニューヨーカー」を優先することに異論はまったくないのだが、しかし――縦横十センチくらいの大きな太い活字でしかしと書きたいのだが――大事なのは稿料ではない。「ニューヨーカー」と優先契約を結ぶというのは、すなわち「ニューヨーカー作家」の列に加えられるということなのだ。それが何よりも何よりも重要な意味を持つことである。もちろん僕は即座にその契約にサインした。結局これまでに、長編からの抜粋を含めて12篇の作品がこの雑誌に掲載されることになった。
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