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養老孟司「ムック本と私」

 ムック本を作りたいんですけどー、と編集の足立真穂さんがいった。そういうときに、むげに断らない。それが私の処世方針である。だからイイヨと答えた。
 それでも近頃は、あんまり当たり前のことをやれといってくると、もうイヤだという。だからすでに書いたものを集めて本を作りたいといわれると、いまは反射的にイヤだという。あんなにたくさん本を出して、どうするんだよ。本人ながらそう思っている。  
 それでも本を新たに書くのはやめない。頼んで来る人になんとなくウンということが多い。編集者が以前からの知り合いで、あれこれ義理ないし負い目があるような気がするからである。それでウンと答えては、苦しがって寿命を縮めている。本さえ書かなきゃ、何十年か寿命が延びたかもしれないのに。
 ところでムックだが、そもそもムックとはなんだ。足立さんにそれを訊いた。訊いたのは覚えているから、教えてくれたに違いないが、答えは忘れた。なんでも私についての軽い本らしい。そんなもの、まあどうということはなかろう。そう高をくくっていた。
 世間をそういうふうに甘く見てはいけない。つまりこのムック本というのは、認識を明瞭にするならば、材料が私で、料理人が足立さんであるところの本なのである。その認識が、私の質問と足立さんの返答の段階で、じつは不明瞭だった。私がそれを理解したのは、イイヨといってしまったはるか後である。これを後の祭りという。
 おかげさまで注文の多い料理店が始まった。私が本を書く必要がないという意味では極楽だが、あっち行ってリニアモーターカーに乗れとか、こっちへ来て写真機のほうを向いて舌を出せとかいわれる。人間の行動には、ふつう論理ないし心理的根拠、およびそれに基づく一貫性があると信じられている。しかし、ムック本の準備の場合には、それがまったくない。一貫した論理ないし心理が存在するのは足立さんのほうにであって、私にではない。私は対象物に過ぎない。おかげで久しぶりに医者にかかっているよう気がした。かかることに同意したのは本人に違いないのだが、そこから先は突然に材料になったのである。医学を専攻したという江戸の仇を、長崎で討たれるとは思わなかった。
 それが終わってというか、終わる寸前に、つまりこれを書いている。それで本人が喜んでいるのは、材料扱いという苦をやっと抜けられたからだが、思えば原稿書きという苦にふたたび戻っている。どこまでいってもこの世は四苦八苦、この歳になれば、そんなことははじめからわかってなきゃいけない。
 商品として考えるなら、本は売れさえすればいい。しかし本を作るほうは、かならずしもそう思っていないであろう。そこが本のむずかしいところである。つまり「いい本」という固定観念かもしれないものがあって、少なくともムック本はそれには入らない。入らないと思う。いい本にならないということは、失礼な言い方だが、売れりゃあいい、売れるしかない、ということになる。それ以外に価値がない。
 それなら売れる自信があるかというなら、そんなもの、あるわけがない。私は商売人ではないが、たまたま本が売れてしまった。世の中には目のない人がいるもので、商売の秘訣を私に訊いたりする。それは無理というもの、買った人に訊いてもらうしかない。だけど自分に関する本が売れないとなれば、なんだか気になる。対象物になった上に、そんな心配は割に合わない。そうは思うが、気になるものは仕方がない。売れたって私のせいじゃないが、売れなくたって私のせいじゃない。そう開き直ってみるものの、やっぱり気になる。
 そこではじめて気づいたが、今までは自分の本が売れたって売れなくたって、知ったことではなかった。そりゃ当然で、本を書くのは思いを述べるため、衣食の手段ではなかったからである。それがムック本ではじめて売れ行きが気になる。そもそもムック本の印税はどうなるんだろう。突然そんなことを思ったりする。私が書いたわけじゃないから、間違いなく私は著者ではない。
 こんなことは、もうないであろう。それで結構、一回でたくさん。それがとりあえずの私の結論である。
(2005年4月号「波」より)