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山崎豊子 スペシャル・ガイドブック トピックス一覧

戦後38年の『二つの祖国』

2015年8月26日 UP

 1983(昭和58)年9月17日、山崎(当時59歳)はロサンゼルス・日米劇場の演壇に立っていた。『二つの祖国』全3巻が刊行されたばかり。それを記念しての講演は、万雷の拍手に包まれる。会場には多くの日系人たちが訪れ、講演を終えた山崎は、彼らから感謝の言葉を浴びせられ続けた。
 敗戦から38年となるこの年、日系人強制収容所の存在について、巷ではまだほとんど知られていなかったのだ。山崎自身がこう記している。

日米開戦と同時に、十二万人の日系人が砂漠の奥の強制収容所に送られたことは、今まで漠然と知っていたが、それが事実であり、同胞の拭い難い屈辱であったことを知った時、強い憤りを覚えた(『二つの祖国』「あとがき」)

「よく書いてくれた」、日系人にとって『二つの祖国』はそれまで歴史の狭間に埋もれていた自分たちの苦難の道のりを、社会に向けて詳らかにしてくれた作品だったのだ。
 この後、日系人戦時賠償問題はクローズアップされていく。アメリカが国の犯した犯罪と認め、日系人たちに謝罪し補償の支払いを決めたのは『二つの祖国』刊行からさらに5年後、1988年8月である。
 ところで12日間にわたったこの講演旅行は、かなりハードなスケジュールだったようだ。最後はホノルルにも立ち寄っているが、都合三度の講演の他、総領事館主催の晩餐会、地元マスコミ各社のインタビュー、記者会見、ロサンゼルスの「紀伊國屋書店」などではサイン会、そして日系人墓地へのお参りにも。

墓参

 サンフランシスコでは、『二つの祖国』を原作とした翌年のNHK大河ドラマ、『山河燃ゆ』のロケ現場も訪ねている。その際、主人公・天羽賢治を演じた歌舞伎俳優・松本幸四郎さんと撮影した一枚が、『山崎豊子 スペシャル・ガイドブック』172ページの写真(本書の中で、幸四郎さんは、山崎、そしてドラマの思い出を語っている)。合間には金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)をバックに記念撮影。山崎の表情が心なしか寛いで見えるのは、5年にも及んだ大仕事が終わったばかりの安堵ゆえか。

私たちの青春を奪った戦争に対する怨念は、戦後もずっと残っていたが、『二つの祖国』を書き終えて、ようやく私の戦後を締めくくることが出来たような思いがする(『山崎豊子 自作を語る 作品論 作家の使命 私の戦後』「私の戦後」)

金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)

金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)

山崎豊子と鉄道

2015年8月19日 UP

 山崎作品をすべて読了しているわけではないので、断定的なことは言えないが、私の好きな鉄道とスポーツがほとんど登場しない。もちろん鉄道とスポーツが出てこないからといって、作品の質にはまったく関係のないことなのだが、作中の鉄道描写を読むのが、根っからの鉄道ファンである私の密かな楽しみでもある。
 『華麗なる一族』や『不毛地帯』では、登場人物たちが頻繁に東京〜大阪間を往来する。にもかかわらず、と力んでしまうが、飛行機を利用するシーンは頻繁に出てくるのに、東海道新幹線がほとんど出てこない。「ひかり」や「こだま」という文字を読んだ記憶がない。それほど鉄道の印象は薄いのだ。
 『華麗なる一族』の万俵家は阪急神戸線の岡本付近にあるようだが、家族の誰もが阪急を利用しているふしがない。

 私が読んだ中で比較的鉄道が出てくるのは、『女系家族』だ。大番頭の大野宇市は、大阪市電や阪堺電車(当時は南海電車)を頻繁に利用する。矢島家先代当主の妾浜田文乃は南海電鉄阪堺線の神ノ木に住まいを与えられていた。宇市は相続の事務連絡で何度か神ノ木を訪れる。
 作品中の「鉄道シーン」は素っ気ないが、昭和38年に公開された映画では、当時の神ノ木駅がしっかりと映っている。南海高野線をオーバークロスするため、神ノ木駅は築堤上にあり、この基本構造はいまも変わっていない。
 緑色1両の電車が到着。中村鴈治郎扮する大野宇市が階段を降りてくる。たまたま南海高野線の電車も通過していく。昭和30年代の阪堺線の様子を伝える貴重なカラー動画だ。

 「原生林の中を四十メートル幅に樹が伐採され、中央に盛土されているところから、壹岐は鉄道が敷かれるのだと直感した」。『不毛地帯』には旧ソ連のバム鉄道が出てくる。バイカル湖に近いイルクーツクの北西にある町タイシェット。壹岐はハバロフスクからシベリア鉄道の貨車に乗せられてタイシェットに連行されて来た。私は快適な寝台車でこの区間に乗車したことがあるが、それでも退屈した。壹岐は大木を切り倒したり、盛土の土を運ぶ労働を強制された。ここには満洲などから大量の日本人が連行され、壹岐と同じようにバム鉄道建設の強制労働をさせられていた。

バム鉄道の景色 2001年5月

バム鉄道の景色 2001年5月

 現在の鉄道地図を見ると、タイシェットから東に向かい間宮海峡に近いソビエツカヤ・ガバニまで線路が通じている。バム鉄道は海外の鉄道を趣味とするファンには知られた鉄道で、同好の友人に乗った人たちがいるし、私もいつか乗ってみたいと思っていた。シベリアの原生林を体感してみたいが、しかし『不毛地帯』を読んでしまった今となっては、心中複雑である。趣味とはいえ、無邪気に過ぎるだろう。

 山崎作品といえば、森羅万象が観察眼鋭く微に入り細を穿って描写されている。鉄道ファンとしては山崎豊子が描く鉄道描写と真っ正面から対峙して、楽しみたかった。

発掘! まだまだあった、
『白い巨塔』貴重資料!

2015年8月12日 UP

 読者の熱い熱い声に応えて始まったのが「続 白い巨塔」。『山崎豊子スペシャル・ガイドブック』内でも紹介したが、財前側勝利とした裁判の結果を覆すべく、山崎は周到な準備をして続編の執筆を始めた。ガイドブックには掲載しきれなかった貴重な資料の一部を、ここで公開する。

 「裁判進行表 第二案」と題された以下の進行表は、控訴審全体の流れが記されている。表は「控訴人(佐々木側)」「被控 訴人(財前側)」「備考」と三つに区切られ、それぞれに登場する証人たちの主張と争点が細かく書き出されている。

資料(1)

 小説内で重要な鍵となる証言のメモも。

A 元浪速大学病院第一外科病棟婦長 亀山君子
術前の教授総回診の時、柳原先生が断層撮影を進言されましたが財前教授は、これを一言のもとに即下されたのを、私はこの耳でしかと、聞きました。

資料(2)

 財前側鑑定人の証言メモ。断層撮影について有利な証言をさせる。

B がんの手術は、目にみえない転移をつねに考慮して行わなければならないことはいうまでもないが、情況判断によっては、たとえ転移巣が疑われても、断層さつえいをせずに主病巣を摘出することはままあり、充分考慮しておれば、がんを治療することにおいて、それをやる、やらぬは大した問題ではない。

資料(3)

 裁判が後半にいくにつれ、鉛筆書きの上に、万年筆での書き込みが増えていく。以下Cには、鉛筆書きを二重線で消していたり、「検討!!」と大きく書き込まれたりもしている。

C 争点3 転移巣の疑いがあった手術にもかかわらず、切除胃の病理検索を怠ったために転移の確認ができず、がん性胸膜炎の進行を早めた。

資料(4)

 いよいよ裁判も佳境。Dには、肺などの図も書き込まれる。そして、Eにはついに、柳原がそれまでの証言を覆す場面のセリフも。面白いのはFで、最後の判決が、「?」とされている。どんな審判を財前五郎に下すべきなのか――つまりは、読者の声にどう答えを出せばよいのか。最後の最後まで山崎は悩み考え抜いたのだろう。

 『白い巨塔』はじめ各作品の創作ノート、進行表、重要資料、生原稿、取材写真などはまだまだたくさんあります。詳しくは、ぜひガイドブックでご覧ください。

山崎ルック
――魅力あふれるファッションセンス

2015年8月5日 UP

 「男らしい」男性を次々に書いてきた山崎豊子。重厚なテーマの作品も多く、“ファッション”という印象はないかもしれない。
 しかし、山崎の中でファッションはとても重要なものだった。

 『山崎豊子 スペシャル・ガイドブック』でもたびたび触れているが、大阪船場の老舗商家の「嬢はん」だった山崎。毎日新聞での記者時代は、服飾欄の担当を務めたこともあり、本人もファッションに造詣が深く、また愛してもいた。それは、洋服・帽子・バッグなどの膨大な私物コレクションが残っていることからも明らか。当然、自身のファッションセンスも非常に高かった。
 たとえば下の写真は昭和30年代前半ごろのものだが、全くと言っていいほど古びていない。

 こうした自身のスタイル以外にも、実は作品中でファッションについてかなり細かい描写がなされている。特に、初期の『女の勲章』は、主人公・大庭式子の職業がデザイナーということもあり、着物からイヴニング・ドレスまで様々なファッションが登場する。
 大ファッション・ショウで式子が出品した「白地に紺の蚊絣風(かがすりふう)の布を直線截ちに近いワンピースにし、ウェストに和服の帯のようなサッシュを扱い、抜衣紋風(ぬきえもんふう)にぬいた衿もとと背筋のゆるやかなシルエット」の作品は、 「和服にも通じるようなデザインは、大阪の古い衣服の伝統の中に育ち、それを身につけた人にしか創り出せないものですわ、つまり江戸流のぱきっとした粋さではなく、上方のこうと(浮華でなく渋い華やかさ)に通じる味ですわ、あれは、大庭さんの特異な環境と人間を物語っていますわ」と作中で記者に評価されているが、この式子の感覚は、山崎にも通じるように思える。

 同じく『女の勲章』に出てくる、世界的デザイナー、ジャン・ランベール。そのモデルといわれるクリスチャン・ディオールが、1947年S/Sのパリコレで発表した「ニュールック」は、戦時のファッションとは全く異なるその女性的なスタイルが、世界中で熱狂的に受け入れられた。それを皮切りに、1950年代はディオールを中心に、ファッション界でどんどん新しいブームが巻き起こり、遠く離れた日本にも伝わってきていた。山崎のスタイルには、そんな時代の熱も感じられるようだ。

 戦争三部作以降の社会派といわれる作品群でも、ファッション描写は詳しい。登場人物たちの名前に並々ならぬこだわりを持っていた山崎だが、同じようにファッションも、その人を表すものとして捉えていたのだろう。そんな視点で山崎作品を読み返してみるのも面白い。

 こちらの写真は『女の勲章』連載終了後に訪れたパリの街でたたずむ山崎。ターバン風の帽子がエキゾチックで、パリにとけこんでいる(大好きな犬まで一緒に!)。ガイドブックでは当時の貴重な写真も多く掲載しているので、“山崎ルック”を楽しむのもお勧めだ。

そして最後の戦いへ

2015年7月29日 UP

 27年前の、1988年7月23日午後3時38分、横須賀沖浦賀水道航路。夏休みを楽しむ観光客を満載にした遊漁船「第一富士丸」は、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と衝突し、沈没。30名もの犠牲者を出し、海上自衛隊史上最悪の事故となった。
 当時の自衛隊に対する評価は、「戦争をしたがっている連中」というもので、事故直後から、潜水艦が悪い、というバッシング一色となった。反論の機会はなく、ただただ心ない言葉を投げかけられる存在。それが自衛隊だったのだ。

秘密の塊・潜水艦が海に顔を出す

 山崎豊子が最後の小説『約束の海』の題材として選んだのが、この自衛隊だった。戦争三部作をはじめ、戦争反対の立場の山崎がなぜ? と思われるかもしれない。
 生前「執筆にあたって」で、その理由について、こう語っていた。

戦争は絶対に反対ですが、だからといって、守るだけの力も持ってはいけない、という考えには同調できません。

 その想いを元に、「戦争をしないための軍隊」を追究する取材が始まる。取材対象は時が経っても癒えぬ悲しみの中にいる遺族、当時は話せなかった事故状況を語る人々、さらには秘密に包まれた潜水艦まで。

約束の海

第二部の構想、シノプシスも掲載

 今回のガイドブックでは、その最後の取材をカラー満載でお届けしている。中には、第二部のためのものも? ぜひ、ガイドブックでお確かめを!

未発表資料! 『暖簾』創作ノート大公開!

2015年7月22日 UP

【1】「創作ノート(一)暖簾」

 今回の『山崎豊子 スペシャル・ガイドブック』では、新たに発見された山崎の戦時下日記を収録している。
 しかし、ガイドブックには、他にも多くの未発表資料が満載だ。
 その一つが、処女作『暖簾』の創作ノート。
 後年、膨大な数の創作ノートをものした山崎だが、新聞記者業の傍ら書いたとみられるこのノートは、現存するもので2冊。それぞれ【1】「創作ノート(一)暖簾」【2】「創作ノート 暖簾第二部」とタイトルが付けられている。

 それでは、実際に見てみよう。
 【1】を開いてみると、1行目に「守銭奴」の文字が。大阪の商人像を描いたこの小説のテーマを掲げたのだろうか。
 そして続けて、構想メモというより、実際のストーリーが記されている。その書き出しはこうだ。

「悟平は長男の辰平が戦死した時も“あゝ、一番資本(もと)かかった奴が一番早よやられよった”と、涙一滴落さなかった」(原文ママ)

 ところが、ご存じのように、実際の小説は吾平(ノート中では「悟平」)が淡路島から丁稚奉公に出てくるところから始まり、ノートとは異なっている。
 この創作ノートの冒頭とほとんど同じシーンが、小説では第一部の終わり頃に出てくる。当初は異なる構成で考えていたのだろう。

【1】「創作ノート(一)暖簾」の1頁目。真ん中あたりに、実際の小説の冒頭部分に近い文章がある

 他にも、このノートには小説には書かれなかった挿話があったり、後半部分には実家の昆布店に取材したと思しき昆布の仕入れ方法、また他の小説の構想も記されているなど、小説家の頭の中を垣間見られて興味深い。

次作「花のれん」に関する構想メモも

 最も異なるのは、ラストだ。
 創作ノートで書かれていたのは、「かわらにたって過去の栄華をしのぶ吾平の眼に雑草が白く光った」というもの。
 しかし、小説は、吾平の次男、孝平が東京資本への対抗心を燃やす場面で終わっている。

 まったく異なるラストシーン。この謎を解く鍵は、2冊目の「創作ノート 暖簾第二部」にあった。詳しくはガイドブックで!

ラストシーンの真意やいかに……!?

新発見! 山崎豊子の日記「戦時下の青春」

2015年7月13日 UP

 山崎豊子の「日記」が発見された。
 当『ガイドブック』編集中のことである。段ボール箱に保管され、紐でくくられていた沢山の「創作ノート」の束をほどき、改めて内容を確認していたところ、表紙のちぎれた状態の一冊のノートとして見つかったのだ。
「日記」は、昭和二十年の一月一日 から三月二十七日の途中までで、その後の数頁は、残念ながら、明らかに破れてしまって、無くなっている。現存するのは、ノートの頁数にして、七十二頁分である。
 内容は、新聞社での仕事の話、作家になりたいという希望、日本の勝利を願いつつも戦争はイヤだという気持ち、淡い恋、そして日記中の白眉と云える、大阪大空襲の実体験について、などである。
 わずか三ヶ月分だが、戦争末期に多感な青春時代を過ごさざるを得なかった、一人の人間の正直な感慨(喜び、悲しみ、不安)が、みずみずしい文章で綴られている。特に、大空襲前後の大阪・船場の様子を描いた文章は、さすが未来の大作家、と思わせ、圧巻だ。
 一部紹介しよう。まずは、昭和二十年の元日。

ノートの一ページ目に書かれた1月1日の日記

ノートの1ページ目に書かれた1月1日の日記

一月一日 月曜 晴
 昭和十九年は過ぎ去った。歴史の年、昭和二十年は、苛烈なレイテの血戦と共に訪れた。元旦と云う如きはれやかな気持些(いささか)もなし。押しつけられたようなへんに息苦しい気持だ。戦況は新聞紙上に報道されるほど良好ではないのだ。祖先の科学せざる過失を、若き者が、子供が今、血を以って償っているのだ。物量と心魂が交換されるのか。熱涙に噎(むせ)ぶ。(略)

 ところどころに書かれる、恋の話では、自ら「私は凪(なぎ)よりも嵐を呼ぶ女だ」と称し、彼の出征に当たって「何とかしてもう一度会いたい」と書き、その関係を「文学する若き者達の恋」と喩える……。

3月10日の日記。明日には、出征してしまう彼への気持が綴られる

3月10日の日記。明日には出征してしまう彼への気持が綴られる

 そして、大阪大空襲の日の書き出しはこうだ。

三月十三日 火曜
 三月十三日、この日は自分の生涯を通じ、又、自分の家の後代に至るも忘れる事の出来ない日だろう。(略)

3月13日、大阪大空襲の日。欄外まで書き込みが

3月13日、大阪大空襲の日。欄外まで書き込みが

 戦時下に二十歳の時を過ごした一女性の、心からの叫びが伝わってくる貴重な「日記」だ。まさに、戦後七十年という節目の年にふさわしい発見であり、山崎豊子から読者への貴重な贈り物と云えるだろう。『ガイドブック』では、二十一頁にわたって掲載する。

途中から、3月14日へと変わる。命からがらの脱出

途中から、3月14日へと変わる。命からがらの脱出

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『山崎豊子 スペシャル・ガイドブック―不屈の取材、迫真の人間ドラマ、情熱の作家人生!―』

山崎豊子
スペシャル・ガイドブック
―不屈の取材、迫真の人間ドラマ、
情熱の作家人生!―

発売日:2015年7月15日 1,650円(定価)

判型 A5 正寸
ページ数 288ページ カラー64ページ

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本特設ページの写真提供(敬称略) 山崎定樹、野上孝子、新潮社
写真の撮影者が明らかでなく、連絡のとれないものがありました。ご存じの方はご一報下さい。
新潮社 出版企画部 03-3266-5611(代)