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yom yom ヨムヨム 23号 特別定価:780円(743円)

『思い出トランプ』向田邦子

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 ある若い作家の方と杯をかわした晩のことでした。お酒もすすみ頬が赤らんできた頃、向田邦子さんの話題になりました。「僕は向田さんの〈字のない葉書〉というエッセイを、思い浮かべるだけで泣けてくるんです。今だって……」とほのかに目を潤ませました。私も大好きなエッセイで、題名を聞いただけでじいんとくるものがあり、二人して涙ぐむ姿は、周りの方には異様に映ったかもしれません。
 戦時中、向田さんの末の妹――姉の“秘め事”を綴った『向田邦子の恋文』の著書もある向田和子さんが疎開に出た時に、向田さんのお父さんは自分宛の宛名を書いた葉書を何枚も持たせました。まだ字の書けない和子さんに、元気な日はマルを書いて毎日ポストに入れなさいと言い聞かせたのです。初めて届いた葉書には、はみ出すほどの大きな赤マルが書かれていたのに、それが急激に小さくなっていき、最後にはバツに変わってしまいます。そして……。ほんの数ページの淡々としたエッセイですが、強烈に胸に迫ってくるものがあり、思い出す度に涙腺を刺激される気がします。思わずほろっときたのが決して酔いのせいでないことは、読んで頂ければきっとお分かり頂けると思います。(講談社文庫『眠る盃』所収)。
 向田邦子さんといえば、ユーモアに溢れた文章を書き、芯が強く気も回り、料理上手と、亡くなられて四半世紀経っても、女性たちの理想として人気は衰えていません。私も学生時代に『父の詫び状』『夜中の薔薇』『眠る盃』などエッセイ集を何冊か読み、なんて格好良い人なんだ、こんな女性になりたいなぁと、(高すぎる)目標を(心のうちにひっそりと)掲げていました。
 そんな憧れが膨らんだ後、短編集『思い出トランプ』を手にしました。夫婦や親子、不倫の男女、恋人同士など、様々な人間関係の――どこにでもいる普通の人々のある瞬間、人生の哀切が淡々と語られます。狡かったり、嫉妬がむき出しになったり、寂しかったり諦めている人々の物語を読んでいるうち、自分の弱くて汚い部分に正面から鏡を向けられて、そこから動けないような怖さにとらわれました。今も考えただけでゾワッと気味が悪くなります。エッセイから感じられる向田さんのイメージとはかけ離れ、全くの別人が書いているような妙な違和感を覚えて仕方ありませんでした。
 その違和に見事に言葉を当てて下さったのが、橙色の表紙、yom yom vol.5での西川美和さんのエッセイです。西川さんは、向田さんの小説の登場人物たちには「満ち足りた人間や、完璧な世界にはない、小さな貝殻の内側を見るような複雑な艶がある」と表現されています。寂しさを根っこからよく知っていたから書けた市井の人々の日常こそ、向田邦子という作家のもう一つの魅力であるというご指摘に、胸のつかえが下りました。同時に、頭で描いていた向田邦子像にぐんと人間味が増し、憧れはより強まったように感じます。
 思い出しただけで、涙ぐませることも怖がらせることもできるのは、向田さんの鋭い筆力の成せる技でありますが、文章からにじみ出てくる姿の見えない何かが、私の心を揺さぶっているような気がしてなりません。それはきっと、多くの人が思い描いている「向田邦子」とは、全く別のところから来ているのでしょう。“格好良いオンナ代表”向田さんの、また別の面にどうぞ触れてみて下さい。

「yom yom」編集部(M・T)

2008年04月16日
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