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yom yom ヨムヨム 23号 特別定価:780円(743円)

彼女(たち)に何が起こったか?

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 川上未映子さんの芥川賞受賞作「乳と卵」が樋口一葉の「たけくらべ」を踏まえて書かれたことは、もう有名でしょう。そのうちに、ジョイス「ユリシーズ」とホメロス「オデュッセイア」の関係のように、この2作の類縁は新しい文学史的常識になるかもしれません。
 まず、三ノ輪に住む夏、という語り手の設定が一葉自身を連想させますし(一葉の本名は奈津あるいは夏子で、いまの台東区三ノ輪界隈に住んでいました)、夏のもとにやってくる姉・巻子とその娘・緑子は「たけくらべ」の女主人公・美登利と彼女の姉の花魁・大巻を思い起こさせます。「たけくらべ」に出てきたのと同じようなセリフも登場すれば、五千円札(一葉の絵柄!)も出てきます。息の長い文体や、会話を地の文で処理するところも一葉ばりなら、一葉と通じるさまざまなテーマも現代的に変奏されながら浮かび上がってきます。
「乳と卵」を読んで浮かれてきた僕は、「たけくらべ」を読み直し、世評高い幸田弘子さんの朗読CDも聴いてみました(いいですよ、これ)。
 この二十年、「たけくらべ」を読む時につねに問題になるのは、小説の終盤で美登利に何が起こったか、です。
 男勝りの下町の美少女(花魁の姉より綺麗だと噂される)美登利は、小遣いも豊富、身のこなしも活々として、悪ガキたちの間で女王として君臨しています。美登利がゆくゆくは姉同様に花魁となることは、みなが承知しています(悪ガキたちは、美登利の将来について、「かわいそうだ」と思ったり「お金をこしらえて、買いに行くんだ」と言ったりしています)。そして14歳(満だと13歳)の年のある晴れた冬の日、美登利は大嶋田を結い、花かんざしをきらめかせて、「極彩色のただ京人形を見る」ような装いで廓のなかに入っていく。普段から、廓に住む姉の部屋へはよく遊びに行っているので、廓へ入ること自体は珍しくないのですが、この日は、廓から出てくると打ちしおれて、言葉少なく、遊び仲間の正太郎(ちなみに歳は数えで13。美登利のことを、「花魁に成るのでは可憐(かわい)さうだ」と思っている)に偶然出会うと、救われたように家に送ってもらいます。
 美登利の母は元気のない娘を見て、正太郎に「少し経てば愈(なお)りませう、いつでも極りの我まま様(さん)」と「怪しき笑顔」をするのですが、美登利は「うつ伏し臥して物をも言はず」。
 正太郎は帰るに帰れず、「病気なのか心持が悪いのか全体どうしたの」と訊くのですが、美登利は泣いている様子だけれど、何も答えはしない。弱った正太郎が「何がどうしたのだらう、己れはお前に怒られる事はしもしないに、何がそんなに腹が立つの」と途方にくれると、美登利は涙をぬぐって、「正太さん私は怒つてゐるのでは有りません」。そしてとうとう、「帰つておくれ、何時まで此処に居てくれればもうお友達でも何でも無い、厭やな正太さんだ」と憎らしげに言われ、正太郎はたまらず美登利の家から飛び出していきます。
 そうして美登利は友達と遊ばなくなり、いつも恥ずかしそうに顔を赤らめ、周りは病気かとも心配しますが、母親は一人微笑んで、「今にお侠(きゃん)の本性は現れまする、これは中休み」と仔細ありげに言うのみ。けれど周囲の評判は、「女らしう温順(おとな)しう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたと誹(そし)るもあり」。
 これ、美登利に何が起こったのでしょう?
 ごたぶんにもれず、僕も高校時代に「たけくらべ」をはじめて読んだものの、文語体だし、吉原の世界に詳しいわけもないし、美登利に何か重要な事件が起きたようなのですがさっぱり要領を得ず、「何だどうしたのよ、これ?」と思っていたら、教師だったか解説だったかが曰く、美登利はここで初潮をむかえ、自分が大人の女性となることで、廓のなかで生きていかざるをえない運命を悟る、みたいな解釈で、「ふーん」(まあ、男子としては、ふーん、としか言えない)。
 ところが、その後、仲間の溜り場であった市立図書館である雑誌をたまたま手に取ると、佐多稲子さん(僕は彼女の「夏の栞」という傑作を読んだ直後でした)が「美登利はここで水揚げされた、つまり美登利の処女が金でやり取りされたのだ。姉の身に起きていることを自分の身で悟った時、闊達な娘に変化が起きる、そこに一葉は哀れを見ているのである。従来の『初潮』説では『たけくらべ』の世界が浅くなる」(大意)と喝破されていて、仰天しました(佐多稲子「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」)。そして、これは正しいよと思った。
 無知な男子高校生の感想はともかくですが、それから十何年後かに、恩田陸さんの「木曜組曲」の冒頭近くに次のような文章を発見した時は、自分の勘が当たったようでやはり嬉しかったです(小説の登場人物の感慨ですから、そのまま恩田さん自身の意見と受け取ってはいけないのですが)。
「『たけくらべ』の美登利がなぜ最後に友人たちを拒絶したかという理由は、長年、国文学者たちの研究によると初潮を見たせいだということになっていたそうだ。それは違うんじゃないか、と、ある女性作家が反論したのはまだほんの十年ほど前のことである。彼女が言うには、その時美登利は『水揚げ』された――つまり、初めて客を取らされたのではないかというのがその説であった。その説が発表された当時、それが画期的な説だと話題になったという話を聞いて、絵里子はあっけにとられたものである。どう考えても、もともと花魁の姉を頼って一家がお茶屋に住込みという環境で育ち、姉から教育を受けて花魁になった娘が初潮を見たくらいで情緒不安定になるとは思えまい(確かに初潮というのは女にとってインパクトがあるものではあるが)。そんなのどかな説が長いこと定説になるとは、国文学とはずいぶんとおめでたくロマンチックな、そして完全な男社会であることよ」(注・正確には、美登利は花魁になることが決まっている娘で、まだ「花魁になっ」てはいないのですが)
 けれど、これは若い後進世代だから言えること、かもしれなくて、佐多さんの説が発表された時(昭和60年)にはちょっとした論争が起きました。国文学の前田愛さんや瀬戸内晴美(寂聴)さんは従来通りの「初潮」説を主張し、野口冨士男さんは「水揚げ=処女凌辱」説を支持、吉行淳之介さんは諸説を紹介して、「この問題に介入する力は、到底持てない」としつつも、「処女凌辱」説にやや傾いています。
 吉行さんは当のエッセイの中で、瀬戸内さんの「初潮」説を紹介しながら、本論にあまり関係しない箇所にも興味を示します。
「……西鶴の好色五人女の、お夏清十郎が花見幕のかげではじめて結ばれた直後の、『お夏の腰平たくなりぬ』の一行を、一葉は読みのがしてはいないような気がする」(瀬戸内晴美「美登利の初店説への疑問」)
 ここに吉行さんは多大な興味を持って、「ははあ、初めて男を知ると、女は腰のあたりの様子が変るんだな。なるほど、色っぽいなあ(中略)それにしても、ひらたくなる、というのはどういう形を指しているのだろう」というわけです。ここから始まる考察は吉行淳之介『あの道 この道』所収のエッセイに直接あたってください。
 吉行さんはこの文章を書く数年前、「処女」をモチーフにした連作長篇「夕暮まで」を14年がかりで完成させています。
 22歳の杉子は妻子ある中年男・佐々と関係しながら、処女でなくなることを恐れ、けっして脚を開こうとしないのだけれど、それ以外の「ヴァージンを失う気遣いのない形にたいしては、すでに十分成熟している杉子は積極的」です(そして、本当に「ヴァージン」かどうかは、男の側からはわからない)。愛ともセックスとも呼びにくい微妙な関係は1年半ほど続きますが、ある日、「やはり、ヴァージンじゃなかったな」と佐々が呟くように言う展開になって……。きわめて省筆された感覚的な文体によって、ちょっと見たことがないくらいに抒情が尖鋭化され、十分に湿り気が与えられながらもたちまち乾いていくようなその小説の風土は圧倒的です。そして、西鶴と伍する、処女と腰をめぐる名場面がありました。
「『去年の水着がみんな駄目になったの。腰のところが、はいらないのよ』
 羞らいと媚が、かすかに杉子の顔を掠めて過ぎた。
『新しく買えばいいじゃないか』
『家の人が、へんにおもうもの。たった一年で、腰が大きくなってしまうなんて』
 杉子の両親は健在だし、兄が二人いると聞いている。そのことに佐々は気を向けないようにしているが、しかしその両親と話し合う必要が起らないとはかぎらない。
『ああいうことだけでも、大きくなるものかな』」
 このちょっとした引用だけでも、平仮名の使い方ひとつ、読点の打ち方ひとつにまで注意がなされているのがわかります。
「夕暮まで」と「たけくらべ」との類似点は(水揚げ説を採るとして)、美登利を水揚げした男が謎めいたままで終るように(きっと富裕な旦那衆でしょう)、杉子の処女を奪った相手も「すこしヤクザっぽ」い若い男であるらしい、と匂わされるだけだという点です。ともにほとんど触れられておらず、顔が黒く塗り潰されているような、輪郭も曖昧な肖像なのに、奇妙に揺るぎない存在感で読者に迫ってきて、やはり二人とも名手だなあと思わされます。
 ただし、吉行さんの登場人物の扱い方は、一葉が美登利に哀れを見たような、いわばストレートな書き方より、厄介で、一筋縄ではいかないようになっています。もし小説の登場人物を倫理的(?)に糾弾することができるとするなら、「夕暮まで」の最後の最後まで、杉子に対する佐々の態度は中年男らしく、卑怯だ、と誹ることが可能かもしれません。小説の最後の行の「金属音」(さて、何でしょう?)は、佐々の狡猾、酷薄、保身、欲望、モラル、未練、美意識などを象徴して、耳元で鳴り続けるような迫力を持っています。あまり親近感を持てないヒーローだ、と見なす読者も多いでしょう。
 けれど、佐々は、この小説の中でたった一度だけ本心を吐露するかのように、ほとんど唐突に、子供のころの何でもない情景を思い出してから、ふと「いいことなかったみたいだなあ」と深く嘆息します。最終章、都心のオモチャ屋で、大声で笑い続ける老爺の顔の玩具(グロテスク・リアリズム!)の前に佇んで、そう呟く佐々の姿は、どこか無防備で、大勢の敵と健気に戦いつづけて疲れてしまった元少年のようで、いっそ哀れで、忘れがたい印象を残すのです。それはまるで、「ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る」と嘆じた美登利がやがて(花魁として? 誰か金持ちの妾となって?)大きくなった姿のようですし、「乳と卵」の「厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんとちやうんか、みんな生まれてこやんかったら何もないねんから」と泣いた緑子の、長い長い旅路の果ての姿のようにも見えてくるのです(と言ったら、美登利や緑子がかわいそうでしょうか?)。

「yom yom」編集部(K瀬)

2008年05月15日
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