だから何だという説ですが、「文学の鬼」(!)と呼ばれた作家宇野浩二は、書き出しの巧い作家をカキダシスト、終わり方の巧い作家をキリストと名づけたそうです。落語の名人上手がマクラを振ってから、さて噺に入った瞬間に、その声のトーンや抑揚だけでぶわっと風景が立ち上がってくるように(最近の立川談春師匠などがそうですね)、確かに作家でも、冒頭の文章だけで作品世界が広がり、読者の首根っこを掴まえるタイプがいます。
たとえば石川淳は、しばしば、きわめて息の長い文章で小説を始めました。これがなかなか、かっこいい。
代表作「焼跡のイエス」はこう始まります。
「炎天の下、むせかへる土ほこりの中に、雑草のはびこるやうに一かたまり、葭簀がこひをひしとならべた店の、地べたになにやら雑貨をあきなふのもあり、衣料などひろげたのもあるが、おほむね食ひものを売る屋台店で、これも主食をおほつぴらにもち出して、売手は照りつける日ざしで顔をまつかに、あぶら汗をたぎらせながら、『さあ、けふつきりだよ。けふ一日だよ。あしたからはだめだよ。』と、をんなの金切声もまじつて、やけにわめきたててゐるのは、殺気立つほどすさまじいけしきであつた」。
石川淳で僕が一番好きな書き出しは、晩年の長篇『狂風記』。
「何といふ木か、途方もなく大きい木が一本、もろに横だふしに、地ひびき打つて……その木はだいぶまへから日でりにも風雨にもそこに野ざらしになつてゐるやうだから、たつたいま落ちかかつたわけではないが、それでもくろぐろとした幹はうなりを発するまでにすさまじく、あふむけにのけぞつて、大枝も小枝もなく、葉の一つすらなく、手足をぶつたぎられた巨人の胴体が泥まみれに、ほとんど血まみれに、投げ出されたといふけはひであつた」。
ね、悪くないでしょう?
いっぽう、石川淳や坂口安吾と並んで「無頼派」と呼ばれた太宰治は、石川と対照的に短いセンテンスで書き出すことが多いのですが、これがまた名人級。スッと世界に引きずり込みます。
新潮文庫『
走れメロス』に入っている短篇の書き出しを並べてみると――
「恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった」(「ダス・ゲマイネ」)
「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い」(「女生徒」)
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ」(「駈込み訴え」)
「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」(「走れメロス」)
「伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である」(「東京八景」)
「人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんな事だろう」(「帰去来」)
往年の落語家で言えば桂文楽か三遊亭円生かといった感じの、無駄がなく、端整で、明るくて、美しい書き出し。とりわけ「満願」は、どこまでが書き出しかと油断していたら、つるつる進み、わずか3ページでものすごい幸福感が得られる名篇です。
宇野浩二の謂う「キリスト」について触れる余裕がなくなりましたが、太宰同様、今年生誕百年を迎える大岡昇平はその代表選手です。たとえば彼の長篇の最後の一句は、「神に栄えあれ」(『
野火』)、「それから闇が来た」(『花影』)など。誰がどこで神の栄光を祈っているのか? 誰にどんな闇が来るのか? これらの言葉に向けて、終盤素晴らしく盛り上げます。太宰、清張だけでない生誕百年作家を読んでみて下さい。
「yom yom」編集部(K瀬)