一昨年の夏、井上ひさしさんの「ロマンス」という
チェーホフの評伝劇が上演されました。役者は大竹しのぶ、松たか子、生瀬勝久、段田安則ほか。「第九条」(何の?)を忘れてひたすらボケつづけるトルストイ、など爆笑もののギャグあり、泣かせもたっぷり、チェーホフに事寄せた井上さんの文学的マニフェストの要素まであって、充実した傑作でした。
その後、毎日新聞の連載小説(辻原登「許されざる者」)を読んでいると、チェーホフ「
犬を連れた奥さん」のアンナがヤルタの波止場で失くした柄付眼鏡(ロルネット)がたびたび出てきましたし、新潮文庫に『
チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集I・II』と阿刀田高さんのガイド的エッセイ『
チェーホフを楽しむために』が入ったし、中原俊監督はふいに代表作「櫻の園」を18年ぶりにリメイクするし(これはチェーホフではなく、「
桜の園」を上演する女子高を舞台にした吉田秋生さんの名作マンガが原作)、最近では村上春樹さんの『
1Q84』の重要な箇所にチェーホフの「サハリン紀行」のさわりが引用され(ギリヤーク人!)、ケイト・ウィンスレットがアカデミー主演女優賞を獲った映画「愛を読むひと」(原作は『
朗読者』)でも急所のところで「犬を連れた奥さん」が朗読されます。
おや、チェーホフすごい人気だなあと思って、短編小説の代表作として名高い「犬を連れた奥さん」を手にとってみました。やはり名作、読んでよかった。
「海岸通りに新顔が現われたという噂が立った。犬を連れた奥さんだという」
「愛を読むひと」で効果的に使われていた冒頭の一文で、阿刀田さんも「チェーホフにしては珍しくなにかが起きそうな気配」と評しています。
モスクワからやってきて、温泉地のヤルタに逗留中のグーロフは、妻子持ちの中年男で、いくたびも浮気を繰り返している。この眠たいような湯治場で退屈していた彼の前に、スピッツを連れてS市からやってきたブロンドの若い婦人、アンナが現われます。アンナは、夫に不満を抱いているし、自分自身にも嫌気がさしている、などということを告白し、二人は順調に恋に落ちます。やがてアンナは夫からの手紙でS市に戻り、グーロフもモスクワに帰るのですが、グーロフはアンナのことを忘れられない自分に気がつき……。
わずか30ページほどの短編なのですが、互いに家庭を持った大人同士の恋ごころの可憐、愚昧、感傷を描いて余すところがありません。そして、俗物性のかたまりのような恋する中年男グーロフが、繊細さを発揮してこんな感慨を抱くところも、日本人がチェーホフを好きな理由のように思えます。
「ヤルタは朝霧の彼方に幽かに見え、山々の頂には白い雲が動かずに浮んでいた。木々の葉はそよともせず、蝉が啼き、下の方から聞えてくる単調で鈍い海のざわめきは、人を待ち受けている安らぎを、永遠の眠りを語っていた。海はまだヤルタやオレアンダがなかった頃も同じ場所でざわめき、現在もざわめき、私たちがいなくなったあとも同じように無関心にざわめきつづけるだろう。(略)私たち一人一人の生や死にたいするこの全き無関心のなかに、恐らくは私たちの永遠の救いや(略)絶え間ない向上を保証するものが隠されているに相違ない。(略)煎じつめればこの世のことは何もかも美しいのであり……」
帝政ロシアも現代日本も恋の幸福感と成り行きは変わらないものだと身につまされる名編で、古びるどころか水気たっぷりで、いきいきしています。
「犬を連れた奥さん」と他の短編を基にしたマルチェロ・マストロヤンニ主演の「黒い瞳」という映画があって、マストロヤンニがくさい大根芝居すれすれの名演技を見せて堪能させます。文芸映画としてなかなかの傑作。こちらもチェックしてみて下さい。
「yom yom」編集部(K瀬)