作家のする〈誤読〉って面白いなあ、と改めて思ったのは、遠藤周作さんの「G・グリーンの魔」(『
遠藤周作文学全集13』所収)を読んだからです。遠藤さんが、同じカソリック作家として長年愛読してきたはずのグレアム・グリーンの代表作『
情事の終り』(田中西二郎訳)を、まるで読み間違っている!
『情事の終り』をどう読んでいるか、粗筋の紹介部分も含めて、遠藤さんのエッセイを引用します。
「一人の作家と一人の人妻との恋愛。時と場所とは第二次大戦中のロンドンで、夜になると独逸の無人ロケットが飛んでくる。二人の情事の最中にロケットは近くで爆発して男は気を失う。彼を死んだと思った女は生れて始めて神に祈る。この人を助けてくださるのなら、わたくしは二人の恋を捨てます、それを誓います。
祈りの通り男は生きかえった。というより彼は爆風の衝撃のために気を失っていたにすぎぬ。
しかし神への誓いは誓いである。女は男から離れるよう努力する。それを知らぬ男は彼女に別の男性ができたと思い、その男性に烈しく嫉妬する」
恋がたき、としての神! これは素晴らしいアイデアです。
けれど遠藤さんが問題とするのは、
「グリーンの(もしくは主人公である作家の)女性の夫への見かたである。(略)この男の凡庸さや善良さに残酷なまでの軽蔑心と嘲りとを持っている」
グリーンには正義感や弱き者への憐憫の情もあるが、
「しかし忘れてはならぬ。彼の『情事の終り』には主人公の作家が嘲りと見くだしをもって扱った(善良なるゆえに)凡庸そのものの夫が存在していたことを。そしてその夫にたいして小説のなかではそれ以外の感情は書きこまれていないことを。(略)凡庸であるゆえに善良な夫、善良であるゆえに凡庸な夫を戯画化し蔑んだ『情事の終り』はグリーンを考える時、どうしても私には気になる。神はそのような権利を誰にも与えていない」
もう断罪もいいところなのですが、不思議なことに、『情事の終り』はこんな小説ではないのです。
高級官吏の妻サラァが急に会ってくれなくなって、作家ベンドリクスは失意のうちに過ごしています。別れから二年たって、サラァの夫ヘンリと偶然会うと、「妻には恋人がいるのではないか」と悩んでいる。ベンドリクスは親友面をして私立探偵を雇い、彼女の身辺を探っていくのですが……。
うまいなあと舌を巻くのは、神という最強の恋がたきの設定や、現在と二人の恋愛時代を行きつ戻りつする構成だけでなく、たとえば作家と夫の関係の変化の描き方です。
かつてヘンリに隠れてサラァと密会していた頃は、ヘンリをそれこそ「見くだし」てもいたでしょうが、やがてベンドリクス自身もまた、神にサラァを〈寝取られる〉のです。ベンドリクスとヘンリは同じ立場になり、サラァの死の後、二人は一緒に暮し始めます。これまで意識すらしなかった神の存在に、半ば脅え、半ば憧れるような心持ちで、ベンドリクスは今宵もヘンリと連れだって近くのパブへビールを飲みに出かける――。
この〈寝取られ亭主〉二人が仲良く歩いていく最後の情景は、味が複雑かつ鮮やかで、忘れがたい印象を残します。ベンドリクスとヘンリの関係の変化こそ、『情事の終り』の一番おいしいところです。
グリーン自身も、「最後の数ページは、自分でも非常に気に入っている」、「とりわけベンドリクスとサラァの夫との間に優しいいたわりの気持が芽ばえてくるところなどはとてもよく書けている」とやや自慢げな口ぶり(『逃走の方法』早川書房)。
『情事の終り』全篇にちりばめられた愛や嫉妬や幸福に関する考察は苦くリアルで、身につまされてひりひりしてきますが、甘美でもあり、またユーモアも感傷もエロスもたっぷり書き込まれていて、エンタメの巨匠でもあるグリーン、さすがに寸時も飽きさせません。
ベンドリクスとサラァの恋のきっかけとなる「玉葱」(「玉葱料理を前において恋に落ちるなんてことがありうることだろうか?」)など小道具の使い方も練達の腕前で、いろんな箇所で唸ってしまいます。「玉葱」は二人の間で隠語となり、「恋は『玉葱』になった、あの行為そのものまでが『玉葱』になった」。
遠藤さんの晩年の大作『
深い河』には、イエスを「玉ねぎ」と呼ぶ神父や、「神さま、あの人をあなたから奪ってみましょうか」と神との三角関係を仕掛けてくる女性が登場します。先のエッセイから二年後の長篇小説です。遠藤さんの『情事の終り』の力のこもった大誤読は、『情事の終り』への挑戦にも、『深い河』への助走にも思え、そのへんが何とも興味深いのです。
「yom yom」編集部(K瀬)