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 24:11 虎ノ門-新橋駅-銀座
 有馬直人
(ありま なおと)


     不意に、鳩尾のあたりに冷たいメスの刃が当てられたような感覚を覚えて、有馬は、ぞくりと身体を震わせた。

 たまったもんじゃないな……。

 生きている人間なら、耐え難いほどの痛みに出会うと、その痛みを回避する機能が働く。つまり気絶する。

 しかし、今の名倉には、気絶すら許されていなかった。彼の意識は、腐りゆく肉体に縛りつけられ、一瞬も途切れることなくその痛みを受け続けていた。

 胃袋を切り開かれ、腸を切り取られ、そして鋸で肋骨を切断された。最後に彼らは名倉の頭の皮を剥ぎ、頭骸骨をまっぷたつにした。脳が取り出され、そこから数片のサンプルが切り取られた。

 流れるような作業だった。すべては、間違えることなく、ほとんど車の解体作業のようだった。
 取り出された臓物が元の場所へ戻され、切り裂かれた皮膚が縫合されても、名倉の痛みは続いていた。極限をはるかに超えていた。誰も味わったことのない苦痛を、名倉は受けていた。

 地獄だ。

 と彼は思った。これは、紛れもなく地獄だ。

 その地獄の苦しみの中で、やがて彼は妻の声を聞いた。その時、彼は暗い棺の中にいた。棺の外では、葬儀が取り行なわれているのだった。

 痛みを必死でこらえながら、名倉は、呟くように震える妻の声に耳を傾けた。彼女は、名倉が遺したレポート用紙の文章を読み上げているのだった。

「……ですから、悲しまれる必要はありません。私は、生き続けるのです。この肉体は死んでも、私の意識は生き続けます」

 やめてくれ、と名倉は妻に言った。そんなものを読むのはやめてくれ。

「残念なのは、この実験の結果を誰にも報告できないということです。霊媒にでも頼めば、あるいは話すことが可能かもしれません。いや、これは冗談ですが。とにかく、私は死ぬのではありません。自分が辿りついた仮説を確かめるために、旅に出るだけなのです。私は死なない。どうか悲しまないでください……」

 名倉は泣いた。

 悲しむなと書いた彼自身が、その自分の文章に泣いた。
 泣いても、涙は出ず、声も出ない。

 いつ終わるのだ。この苦しみに、終わりはいつくるのだ。

 数時間の後、彼は棺の中で、ゴウゴウと吠えるようなバーナーの音を聞いた。


 小説は、そこで終わっていた。

  このあと……どうなるんだ?
 だって、焼かれたって死なないんだろ、こいつ……。

 なんて、話なんだ。

 文庫を膝の上で閉じ、ぼんやりと顔を上げた。
 いつの間にか、どこかの駅に着いていた。
 どこだろう──。
 首を回しかけたとき、ドアが閉まり、電車が動き始めた。
 そのとき──。

 有馬の目の前に立っていた男が、いきなりつんのめるようにして床に倒れた。
「…………」
 眼を見開いて、倒れた男を見つめる。
 厭な気持ちがした。あんな小説を読み終えたばかりだったからかもしれないが、有馬の目には男が死んだように見えたのだ。
 しかし、当然のことながら、死んだわけではなかった。男は多少フラフラしながら立ち上がり、後方を向いて先ほどと同じような姿勢をとった。自衛隊か、警察官か……そんな感じがした。男の立ち方が、あまりにもピチッとして見えたからだ。

 先ほどの駅で多少乗客の乗り降りがあったらしく、車内の様子が変化していた。見通しがききやすくなっている。
「…………」
 後ろのほうへ目をやって、有馬はふと首を伸ばした。
 あいつ──どこへ行ったんだ?


    目の前に
立って
いた男

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